mixiユーザー(id:5089039)

2015年10月09日08:34

134 view

幸せになる人・ならない人2


部分だけでなく全体を見る
阿奈靖雄さんは「プラス思考の習慣で道は開ける」(PHP)で、「部分ではなく、全体を見る」というテーマで、埼玉県川口市の加藤みち子さんの事例を取り上げています。

加藤さんは16歳のとき、無腐性壊死(むふせいえし)という難病になりました。爪が根元から化膿して激痛の日が続きました。歯がボロボロと抜ける、髪も抜けていきました。20歳の春は最悪。体重は22キロに激減、血圧は60〜30。3000ccの輸血でやっと一命を取りとめました。

親を恨み、神を呪う闘病の毎日。そうした彼女の運命を変えたのが城野広志氏との出会いでした。

「何だ、体中が病んでいると聞いたけど、手は動くじゃないか」と城野さん。
「目は見えるかい?」「耳は聞こえるかい?」・・・・・。
そして「心配ないよ。あなたの体は90%正常ではないか」

この言葉を聞いた途端、彼女は大発見をしたのです。
「体は病んでいるといっても、手足も動く、目も見える、耳も聞こえる、しゃべることもできる・・・・。よく考えると、城野先生のおっしゃるとおりだ。ほんの一部だけが病んでいるに過ぎないのだ」

生きることをあきらめていた彼女の新しい人生が始まった。すると不思議なことが起こってきました。
壊死している爪が生えてきました。髪も生えてきました。股関節の激痛も薄らいできました。つまり長い間、彼女を蝕んでいた難病が、その活動を停止したのです。

とかく、私たちは「一部分」しか見ていないのに、それがあたかも「全体」であるかのような錯覚に陥ってしまいがちです。

運命と向き合う
中野孝次さんの「人生の実りの言葉」(偕成社)を読んでいると同じようなことが書いてありました。以下はその本の記事を転載します。

運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。それを、それより強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いたりする。われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである・・・・・モンテーニュ『エセー(1)』より。

私はこのモンテーニュの言葉を読むたびに、一種の戦慄を覚えないではいられない。人生の幸不幸とは、そういうものとして与えられるのではなく、運命が与えたものをわれわれがどう受け取るかによって決まるという。これは恐ろしい考えだ。

人生には人が不幸と見なすものがたくさんある。病気、貧困、死、苦痛、老い、奴隷状態、孤独、別離、その他どんなものでも不幸の種になりうる。モンテーニュもこの「幸不幸の味は大部分、われわれの考え方による」と題した長い章の中で、それらを一つ一つとりあげて、はたしてそれ自体が不幸であるか、と検討する。たとえば人みなが恐ろしがるものの中の最も恐ろしいという死なら死をとりあげ、本当に死は不幸かと問う。

死はたしかに恐ろしい。が、別の人は死を「現世の苦しみの唯一の避難所。自然の最高善、われわれの自由の唯一のよりどころ、万病に効く即効薬」と呼んでいるのを知らぬものはあるまい、という。

なるほどそのように言われれば、われわれの忌み嫌う死でさえも、見方を変えれば救済になりうることを、納得せざるをえなくなるのだ。そして他のいろいろな不幸についても、われわれの心の持ち方次第で、幸となりうることを証明してみせ、運命はただ材料を提供するだけで、それに形を与えるのはわれわれの精神なのだ、と結論する。

モンテーニュのそういう論理の運び方はよくわかる。だが、大胆なその結論の断定の仕方に直面すると、それをそのまま認めることが中年過ぎまで私は恐ろしくてできなかった。

しかし老年に達した今のわたしは、何のためらいもなく、モンテーニュの言うことは正しいと認める。運命が与えるそれ自体は幸でも不幸でもない。われわれの精神がそれをどう考えるかによって、それは幸にも不幸にもなるのだ、と。

ガンによる死を前にしてさえも、人の心はよろこびに満たされることがあるのを知っているから。高見順はガンによる死の前にこういう死を作った。

電車の窓の外は 光にみち 喜びにみち 
いきいきといきづいている この世ともうお別れかと思うと 
見なれた景色が 急に新鮮に見えてきた 
この世が 人間も自然も 幸福にみちみちている 
だのに私は死なねばならぬ 
だのにこの世は実にしあわせそうだ それが私の心を
悲しませないで かえってわたしの悲しみを慰めてくれる 
私の胸に感動があふれ 胸がつまって涙が出そうになる
                    「電車の窓の外は」

死が近いというそのことによって、逆に生が凝縮されて光ってくる。死の意識が生の高揚をもたらしているのである。それはガンによる死がなければついに味わえなかった生の光景なのだ。高見順は死を逆手にとって生を荘厳ならしめているのである。

むろんそれは心の持ちよう次第であって、誰もが高見順の高揚に達せられるわけではなかろうが、精神次第で不幸も幸になることはこの例によってもわかる。だからわたしはヒルティがその「幸福論」の中でこう言っているのも、そのまま認める者だ。

苦しみは人間を強くもし、弱くもする
苦しみは人間を強くするか、それとも打ち砕くかである。その人が自分のうちに持っている素質に応じて、どちらかになる。幸福なときには、苦しみにどれだけ耐えうるか、かいもく自信がない。苦しんで初めて自分を知るのである。

ここから逆に、一度も苦しみに遭ったことのない人生は価値がない、というテーゼ(命題のこと)を引きだすこともできそうだ。いま60代以上の人にとって「太平洋戦争」中と敗戦後の窮乏体験は、人生の最も大きな事件であった。食料難、物質不足、貧困、住居難など、およそ人が一生に出会うほどの災難はあの数年間に全部体験したのだった。だが、あの苦しみを耐え通したからこそ、われわれの世代はちっとやそっとのことではぶっ倒れない性格の強さを得たのだといえる。

いずれにせよ、幸とか不幸とかは、決まったものとしてそこにあるのではない。運命がもたらすものを幸にも不幸にもするのは、われわれ自身なのだ、ということをしっかりと心に言いきかせる必要がある。「何で自分だけがこんなひどい目に遭うんだ」などと言ってはならない。それをひどい目と思うかどうかは、君の心次第なのだから。


5 1

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する