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2015年10月07日09:37

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2時間で終わった命にも役割がある


樋野興夫「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい」より。

・・・略・・・

臨床医が生きた人と接するのに対して、私たち病理学者は主に亡くなった方々(ご遺体)と接することになります。

いまは指導する立場なので自分ではやりませんが、20代から30代にかけて、たくさんの病理解剖を行ってきました。正確な数字は把握していませんが、300体は越えているでしょう。

人生これからといった若者や生まれて間もない赤ん坊を解剖しなければならないときは、人生の空しさを感じました。

「いったいこの子は何のために生れてきたのか?」
若くて未熟だった私には、その答えがわかりませんでした。
遺体から臓器を取り出し、おなかの空っぽになった様子を見て、「生きるとはどういうことか?」、「死ぬとはどういうことか?」と自問したものです。

人間は、自分の寿命に気づかない生き物です。病理解剖を何度繰り返しても、自分が明日死ぬとは思えない。しかし人間は誰でも必ず死ぬ。その事情がわかっていながらどうしても「明日は自分が死ぬ」とは思えません。

元来、人間とはそういう生き物です。
ところががんになると様子が違ってきます。突然、自分の死がリアルに感じられるようになります。実際はがんになっても半数の人は治りますが(発見が3年早ければ7割は治るとされる)、「がん=死」という図式が頭をよぎります。そして人は、生きる基軸を求めるようになります。

「自分は何のために生れてきたのか」
「残された人生をどう生きたいのか」
「そのために自分は何をすればよいのか」

あるときから私は「死しても生きるとはどういうことか?」を考えるようになりました。「死から生を見つめる」のが私の仕事だったからでしょう。

そして私はこう考えるようになりました。
人間には一人ひとり、その人に与えられた役割や使命がある。たとえ生後2時間で亡くなった赤ん坊であってもそのことに変わりはない。生まれてきたことや、生きていたことは残された者への贈り物になる。

生後2時間で赤ん坊を亡くした両親と10年後に会う機会がありました。そのとき両親は話してくれました。

「あの子が生まれてきたからいまの私たちがあります。あの子の分も楽しく、素敵な人生を送りたいと思っています。
 いまでもときどきあの子のことを思い出して二人で話すことがあるんですよ。とても短い人生でしたが、いまではあの子にはあの子なりの役割があったと思っています」。

どんな短い人生であっても生きている限りは一人ひとりに役割がある。大事なことは、それに気づけるかどうです。

人生の役割についてお話をすると、ときどきこう尋ねられる方がいます。
「先生ご自身の人生における役割は何でしょう。よかったら教えてください」。

一言で答えられたよいのですが、そう簡単ではありません。
たくさんの死に向き合ってきた私ですが、いまだ、日々、自分の役割を求め続けています。生きながら、歩きながら、探し続ける、それが人生というものではないでしょうか。

マザー・テレサは語っています。
「私は、主のみこころを記すための短い鉛筆です」。
彼女の言葉を借りるならば、所詮、人生とは「ちびた鉛筆」です。

田舎町で育った少年の頃、物を大切にする美徳として「ちびた鉛筆」を我慢強く、丁寧に使い、宿題を完成させたものです。

問題は「鉛筆」の長さではなく、鉛筆を使って何を描くか。それが私たち一人ひとりに与えられた役割や使命ではないでしょうか。


樋野興夫先生は順天堂大学医学部、病理・腫瘍学教授で医学博士です。



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