mixiユーザー(id:4256938)

2015年09月26日15:24

157 view

むのたけじさん

「今、皆さんに一番言いたいのは、自分が人間であることに責任を持つべきだ、ということ。
自分自身の存在を、例えようもなく大切な存在だと気付かなきゃいけない。

72億人のうちのたった一人。
その責任と誇りを感じたら、きっと他人も同じ目で見ると思います。その生き方を否定するのが戦争でしょう。戦争を許しちゃいけない。」

17日の道新「私の戦後70年」より一部抜粋。
戦争報道の現実を知るジャーナリスト むのたけじさん

特派員として初めて中国を訪れたのは1940年(昭和15年)の夏でした。
日本軍の最前線を取材しました。

(ある村では兵舎がなく、日本兵は野宿をしていた。
中国の村人は「日本軍が来る」と聞くと、兵舎に利用されぬよう建物を解体、水も電気も止め、学校も「青空学校」となった)

大人が「日本に徹底抗戦する」と言っている意味を子供たちも理解していました。
それを痛感し、中国を屈服させるのは無理だと感じました。
もうこの段階で、日本は反省して戦争をやめるべきだったのです。

【翌年12月、太平洋戦争開戦】

あれだけの大戦争なのに、それまで社内で話題にならなかった。軍部の動きを察知できなかったんです。
なんでこうなったんだろうと、路頭に迷い込んだような気持ちでした。

インドネシアのジャカルタ支局に赴任しました。
戦場は常識が通らない特別な世界です。弾丸が飛ぶところに身を置くと、兵隊でも従軍記者でも相手を殺さなければ、こっちが殺されます。

神経がまひし、道徳心が消えていく。だから略奪、強姦、放火が繰り返されるのです。
軍隊は命令と服従で成り立っています。戦場を経験した人は家族にも言えないつらい体験があったのです。

韓国から来た従軍慰安婦にも話を聞きました。ベッドの横には、故郷から持って来た家族の写真がありました。
自ら進んで来た慰安婦もいただろうけど、インドネシアには軍用船に乗ってきたそうです。
だから、日本軍の関与がなかったわけがない。

帰国してからの記事で、記憶に残るものは多くありません。
45年3月の東京大空襲は軍部が「被害軽微」と発表し、人間も家屋も焼き尽くされた現場を見たのに何も書けませんでした。
当時、特別高等警察(特高)や検閲官が社内に来たわけではなく、新聞社が自己規制したのです。

8月12日、編集局に「日本がポツダム宣言を受諾する」という情報が入りました。
今の新聞なら、どうするでしょうか。すぐに号外を出す。
あるいは軍部の発表とは別に、15日の朝刊で「きょう、玉音放送」と書くでしょう。
しかし、どこも何もやりませんでした。
新聞が新聞でなくなっていたんです。

【戦争報道の痛切な反省から、終戦とともに退社。戦後は故郷の秋田で週刊新聞「たいまつ」を30年間発刊し、一貫して反戦を訴えた】

今、皆さんに一番言いたいのは、自分が人間であることに責任を持つべきだ、ということ。
自分自身の存在を、例えようもなく大切な存在だと気付かなきゃいけない。

72億人のうちのたった一人。
その責任と誇りを感じたら、きっと他人も同じ目で見ると思います。その生き方を否定するのが戦争でしょう。戦争を許しちゃいけない。

100歳の声で叫び続けますよ。

■戦後最長国会、大荒れで幕=安保法、与党押し切る
(時事通信社 - 09月25日 19:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3633211
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する