昨日の日記・中村天風「理想の人生」に続きます。
中村天風先生「心に成功の炎を」(日本経営合理化協会)よりまとめました。
肉体より心を大切に
そのためには、肉体ばかり考えてもいけないし、心ばかり考えてもいけないんです。心と肉体が一つになって我々の生命が生かされている。そして、心と肉体を一つにして生かされているという、この現実を忘れて生きたら、四つの条件は目的を達せられないんです。
もし我々が肉体だけを本位として、それ注射だ、それ薬だ、それ栄養だといって、それだけで丈夫になれるとしたら、人生、このぐらい気楽なものはありません。
生命というものは、肉体だけの処理では完全に解決がつかない存在であるからです。
その肉体が生きていけるのは、生命を生かすエネルギーがあって、それを心が受けとって、生命活動という現象があるんです。あくまでも、心と肉体がピタッと一緒にならなきゃいけない。
心こそ人生の土台
そこで、ピタッとあわせるためには、何においても、まず第一番に必要なのは、人生に生きる刹那(せつな)、刹那に、体よりも心というものを大事に考えて積極的に生きなければならないということです。
人間としてこの世に生まれた以上は、どんな場合でも、心の状態を積極的にして生きる。人生の一切合財を始終プラスの状態にあらしめる。
これが、理想的な人生を貫くためのいちばん必要なことです。ちょうど家を建てるときの土台と同じようなものです。
そうでないと、ただ生きていられるから生きているという、漫然たる生きがいのない人生だけが残ってしまうことになります。
ところが、これだけ熱心に私の話を聞いている人の中にも、心の中に消極的な波を起こし、なかなかこの真理が実行できない人が多いんです。
またこういう人もいます。
「なるほど、理屈はそうかもしれないが、天風さんの言うとおり、なかなかきちんといくもんじゃない」。
しかし、自分はそれで納得できるかもしれないが、真理というものは、皆さん方の理屈に同情はしないんです。甘くはありません。
報償(コンペンセーション)の法則
自然界に存在する人間への掟はまことに厳しい。しかも、これは、千古変わらず、久遠の昔から永遠の将来まで、「証し」として実存しているのです。どんな身分の人だって、真理にそむいてはダメなんです。
間違った生き方をしていると、たちまち、あなた方に反省を促すような事実が起こります。その反省を促す事実とは何かといえば、病なり不運なりです。
どうも知識階級の人は、人生にこの犯すべからざるコンペンセーション(報償)の法則に対して、正しい自覚をもっているとはいえません。
病になったり、不運になったりしたとき、皆さんは、
「罪は自分にあるんじゃない。こうなった責任は私じゃない」とこういうふうに考えていませんか。
風邪一つにしても、自分がまいた種に花が咲いたのです。でも、自分に種をまいた覚えはない、自分に責任はないと思っている。
「風邪ひいたのか。どうして?」
「どうしたって、わかるかい。知っていれば風邪なんかひくもんか。目が覚めたら風邪ひいてたんだよ」なんてことを平気で言っています。
また、事業に失敗したり、商売をうまくやれなかった人も、決して自分にその責めを負うという考え方はしません。
「汗水たらして、人の寝る間も寝ないで働いても、時世だよ、こういう時代だ、儲からないのが当たり前じゃねぇか。ああ、嫌だ嫌だ、こんな世の中は」なんて言っている。
それじゃあ、みんな嫌がってるかというと、なかには成功している人もいる。
そうすると、「あんなのは運だよ。宝くじに当たるようなものだ。彼だって、成功するつもりで成功したんじゃないよ、気がついたら成功していたんだ。まあ、1万人の中で1人成功して、あとの9,999人は失敗するんだ。それが当たり前だ」と考えている。
人生に偶然なし
どんなことであろうと、事の大小を問いません。自分の知る、知らないとを問わない。すべての人生の出来事は偶然に生じたものじゃありません。アクシデント(事故)というものは、自己が知る、知らないとに関係なく、必ず自己がまいた種に花が咲き、実がなったのです。
生きるうえで正しい自覚が、そして反省が、常に油断なく行なわれていないと、ぜんぜん自分が気がつかない悪い種を、健康的にも運命的な方面にもまいてしまうんです。
消極的な3つの感情
理想的な人生を生きるうえで、注意のうえにも注意をしなければならないことは、
「怒ってはいけないこと」、「悲しんではいけないこと」と、「怖れてはいけないこと」なんです。
この逆をのべつまくなしに、ひっくり返し、ひっくり返し、日々やっているのが、皆さんの日課じゃありませんか?
「人間だから怒るのは当たり前だ」っていう人がいるけれども、どういう訳で人間なら怒るのが当たり前ですか? 多くの人は、「怒ったり、泣いたり、恐れたりするのは、人間だからできるんだ。犬や猫や豚や馬でもやるかもしれないけれども、人間ほど繊細で、直感的な感情というものを持たないじゃないか」と言います。
万物の霊長
そういう人に限って、「人間は感情の動物なり」というような間違ったことを言っています。「感情の動物だから、怒ったり、泣いたり、恐れるのは当たり前じゃないか」というようにです。屁理屈の出発点を間違えると、結論もやっぱり間違って、正当なとこへ到着するはずがないんですよ。
ここにお集まりの中にも、人間を動物の仲間に入れて、「感情の動物なり」といって、万物の霊長として、生きとし生ける生命を与えられたものの中でいちばん尊いはずの人間を、馬や猫と同じにしている人がいやしませんか。
そう考えているから、人間それ自身の評価を、我知らずグンと低くしてしまっている。現象界に存在するものの中で、いちばん何ものより尊いのは人間なんですよ。
それを、「これを怒らずにはいられるか」とか、「これが恐ろしくないでどうする」なんていう人がある。なかにはもっと変なことを言う人がある。
「おれはな、怒りたかねぇぜ。怒りたかねぇ」
「怒りたくなかったら怒らなきゃいい」
「怒りたくはないが、これでも怒らずにはいられるか、というようなことをするから、やむを得ず怒るんだ」といって、付き合いで怒っている人もいる。
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