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2015年08月17日07:29

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家族とは、神が定めた修業の場だという。


家族とは、神が定めた修業の場だという。
自己の成長のスタンスがそこにある。


おやじがいて、おふくろがいて、この自分がいる。時には、兄がいて弟がいて、姉がいて妹がいる。また夫がいて妻がいる。婿殿がいて嫁御がいる。孫もいる。みんな家族なのだ。もっとも身近で、全くかけがえのない血縁の関係集団だ。

ひとつ屋根の下で、家庭が営まれ、家族が育つ。夫婦、親子、兄弟姉妹は、いやが上にも、環境を共有し、お互いに影響し合い、共に成長していく。家族には、それぞれの生き方の外側も内側も無条件に受け入れてくれる包容力と安心感がある。

そのような日々が重ねられていく過程を、お互いに共有する事実が「時の重み」をもって厳然と存在する。そこには他所者(よそもの)の入り込む余地はない。血は水よりも濃いのである。

しかし夫婦といっても、元は赤の他人。兄弟は他人の始まりという。家族とはいえ、個々のひとりひとりは、個性もあり、人格をもった人間である。幼児すら、すでに我(が)を主張する。互いに意のままにはならぬ。

さらに身内であればこそのわがままも出てくるが、夫婦、親子といえでも、親しき中にも礼儀は必要だ。

家族の間とはいえ、本音も建て前も無視はできないのだ。従って家族の中でも、互いに自分を律することを忘れてはならない。

律するとは、ひとすじの道を守る、すなわち人間として信念のすじみちを基準として自ら律することである。

その上で家族は、心身共に自分を解放することの出来る場となる。それを認め合い包み合う場なのだ。そういう家族の中に居て、夫婦、親子の人間関係を営み、その中であからさまにさらけ出す自分自身を、真正面に見つめる機会となる。

日々の家族関係の中で、私たちは、自己抑制を知り、他者への思いやりを覚え、人としての正しいみちすじを学び、礼儀作法をしつけられ、物事の是非、善悪の区別をわきまえ、言葉の使い方を身につけることになる。

そして向こう三軒両隣りの近所付き合いを大事にすることから、他人との関わり方を知り、コミュニティへの拡がりの中で、社会と人間の正しい関係を育てていくことになる。

斉家(せいか)という言葉がある。家庭を整え治めるという意味だが、中国の古典にある「修身斉家治国平天下」(『大学』)から出た言葉だろう。まず自分の身を修め、家を整え平和にして初めて、国が治まり、天下が治まるということだ。

いま家族崩壊が叫ばれている。すでに社会が荒れ、国が乱れている。そして国を治める政治家たちの家庭すら整っていないのが多い。

家を整い治めるには、父の仕事でも母の仕事でも、夫でも妻でもなく、家族の者ひとりひとりが、それぞれに分を守り、なすべき事をすれば、一家は乱れることなく平和を保っていくことが出来るということだ。

縁があって、夫婦となり、子を授かり、親子となり、ひとつの家族が形成されていく。夫婦は元は赤の他人というが、ただの他人ではない。同じ赤でも、赤い絆によって結ばれた他人なのだ。中には、赤いと錯覚して飛びついた慌て者もいるかもしれないが、それも縁。みなそれなりに意味があるのだ。

縁は、「神が定めた」ものとみれば、積極的肯定的に受け入れて、一回限りの自分の人生にとって、この家族としての出会いを、自分も相手もお互いに意味あるものとして、大切に担っていきたいものである。

以上、清水榮一「中村天風に学ぶ絶対積極の言葉」より。
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