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2015年08月15日12:55

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ある人の戦争体験「一生忘れられない出来事」



致知出版社の「人間力メルマガ」(2015.8.15)より。

本日は終戦記念日です。それも戦後70年という節目の年にあたります。
そこで本日は戦時中に輸送船が二度撃沈され漂流、九死に一生を得て、苦学の末に日本考古学界の重鎮となった大塚初重氏(明治大学名誉教授)の戦争体験をご紹介します。

戦争の記憶が日本から失われつつあるいま、先達たちが必死に生き抜こうとされた当時の
貴重な体験談に耳を傾けてみましょう。


──乗っていた船が二度も撃沈されたのですか。
 (対談のお相手は小野田寛郎さんです)

ええ。あの日の出来事は忘れたことはないです。
昭和20年、私は御茶ノ水の海軍気象部で気象観測をやっていました。

3月10日に東京大空襲があって一晩に10万人が亡くなりました。
我々は11日から死体の片付けに駆り出されました。
見渡す限り、焼け野が原に黒焦げの死体の山……。
その死体を大八車に乗せながら、これはちょっと日本に勝ち目はないんじゃないかと思った。

その直後に上海への移動を命じられ、3月末頃に佐世保湾を発ちました。
途中韓国の済州島沖で錨を下ろしていた時、ドッカーンときて、その瞬間に船が燃え上がりました。


──じゃあ停泊中にやられたのですか。

はい。我々の船は門司港で36発の魚雷を積んでいました。
そこへ米潜の魚雷が当たって爆発したものだから、6,000トンくらいの船の半分が飛んでしまって、沈みながら燃えていたんです。

私は後部船倉にいましたが、垂れ下がってきたワイヤーロープに飛びつき、必死で甲板に登っていこうとしました。
そうしたら他の連中の手がいくつも私の足をつかんでくる。もう芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の世界です。

私はね……、
生きるためにその人たちを蹴落としたんですよ……。
助かりたい、なんとか生きたいという思いで無我夢中でした。

後から考えれば人殺しをしてしまったわけです。


──……自分に余力があれば人も助けられます。
  まずは自分が基本です。
  震災でも何でもそうでしょう。
  それは無理のない話だと思います。



海軍に入ってわずか一、二年の若造で下士官でしたが、自分が助かりたいばかりに、人を燃えている船底へ蹴落としたダメな軍人だったと、後から自分で自分を随分責めました。

私も82歳になりましたが、あの出来事は一生忘れることはできません。

しかし、その後の人生の時々にあの日の出来事が蘇ってきて、つらい時、苦しい時、いろいろなことがありましたが、それは随分支えになりました。

犠牲になった命に報いるために、自分はやらねばと覚悟を決めて生きてきました。



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