ペルシャの賢人は「不機嫌な人には優しさで、ひねくれた人には親切で応じなさい。優しさはゾウでさえ髪の毛一本で導くことができる。敵には優しさでこたえなさい。平和の対極は罪である」といった。
仏教でも「誰かが愚かにもわたしに悪事をなしたら、わたしは理解ある愛の保護で答えよう。相手から悪がくればくるほど、わたしからは大きな善で応じよう」という。
中国では「賢者は傷つけられれば、恵みを返す」というし、ヒンズー教でも「悪には善で応じ、怒りには愛で克服しなさい。憎悪は憎悪では止められないが、愛で止めることができる」という。
・・・・・以上、ラルフ・ウォルドー・トライン「人生の鍵を開く万能の鍵」(サンマーク出版)より。
私たちは「魂」を向上させるため、愛を学ぶために、生まれてきています。同じ高さにいると腹の立つことも、高いところから見れば腹も立ちません。この野郎が、と腹を立てているうちは、この野郎と同じレベルにいるということです。
太田篤さんはその著「生まれてきた理由」で次のように述べています。
魂の格が違えば、あるいはポジションが違えば、ケンカにはなりません。
ある巨大な宗教団体が、ある写真雑誌に中傷されたということで、その版元の出版社と大ゲンカをしていました。悪口を書かれたということで、信者が揃ってその出版社にファックスを送り続けて業務を妨害し、前例のない騒ぎになりました。
その写真も、常々芸能人のプライバシーを盗み撮りするレベルの雑誌です。そんなところと本気になってケンカしているということは、自分たちも同じレベルだ、と言っているのと同じことです。
もし、お釈迦さまが人から悪口を言われてカンカンになって怒っていたらどうでしょうか。これではもうお釈迦さまではありません。
イエスは十字架を担いで歩いているときに沿道の人に石をぶつけられました。このときイエスが石を拾って投げ返していたらどうでしょう。これではもうイエス様ではなくなってしまいます。
つまりレベルが高ければケンカにはならないはずなのです。家庭や社会の人間関係で嫌なこと辛いことがあっても、高いところや広いところから見ると、それはちっぽけな悩みと感じることができるでしょう。 (以上)、
要は、太田さんは人間の器の大きさの問題だというのです。以上お二人の話からなるほどと思うことしきりです。
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