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2015年04月20日18:09

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イランがつついた蜂の巣 明治大特任教授・山内昌之

 下記は、2015.4.20付の【歴史の交差点】です。

                       記

 国を追われたイエメン大統領ハディや彼を受け入れたサウジアラビアは、その政権が「フーシ集団」なるシーア派の一派(ザイド派)に倒された背景にイランの影を見いだしている。

 イランの革命防衛隊は、シリアやイラクの「イスラム国」との戦いに加えて、イエメンでも事実上の主役を演じている。革命防衛隊の宗教コミサール(指導員)のアヤトラ・アリ・サエディは、「イエメンの人民もイスラムの栄光を求めて、イラク、シリア、レバノンでの共闘に参加した」と述べた。

 サウジアラビアがイエメン内戦に軍事干渉を決意したのは、イランがアラビア半島の政治力学におけるレッドラインを越えたからだ。それは、イエメンのあるアラビア半島の南西部こそ、サウジアラビア王国にとって地政学と安全保障の両面でアキレス腱(けん)だからである。イランの介入を認めると、ラテン語で「幸福のアラビア」とうたわれた地域がまるで「幸福のペルシャ」にもなりかねない。

 サウジアラビアは、メッカとメジナ両聖地の管理者にしてスンニ派の盟主を自任している。シーア派の総帥ともいうべきイランに、裏庭どころか表庭に入り込まれる不愉快さは例えようもないほどだろう。

 しかし、イランとイエメンとのつながりは、日本人が思うほどとっぴなものではない。イランでもスンニ派が有力だった時期にカスピ海沿岸で露命を繋(つな)いだザイド派は、10世紀頃から重要な拠点をイエメンにつくることに成功した。それ以来、イエメンはザイド派が堅持してきた本拠になったのである。

 1960年代、シャー(国王)が君臨していたイランは、南イエメンに対するエジプトのナセルやソ連の影響力拡大を危惧し、北イエメンの王党派や部族にテコ入れを図ったものだ。当時のイランは、アデン湾やソコトラ島がソ連に支配される事態を憂慮し、石油タンカーのシーレーンへの脅威も感じていた。

 実際、エチオピアやソマリアとアラビア半島をつなぐ紅海とアラビア海の出入り口を押さえられるイエメンは、大産油国イランにとっても地政学的重要性を帯びていた。イランは74年にハムディ大佐の政変を支援した結果、1億ドルの援助を供与し、2000人以上の技術者を「国際福祉部隊」の名目で北イエメンに送り、道路や学校や診療所の建設にあたった。政変を成功させた参謀格は、後に大統領となるサレハである。

 3年後、サレハはハムディ死後まもなく彼の後釜に座った。こうしてアラビア海とアデン湾を掌握しようとしたイラン海軍の夢は雲散霧消してしまった。当時のイラン外相はこう述べたという。「われわれはイエメンがそのようなスズメバチの巣だとは知らなかった」(『アッシャルクルアウサト』2015年3月20日)。イスラム共和国に体制が変わった今でも、イラン人は統一イエメンが常に部外者を突き刺すスズメバチだという厳しさを意外に認識していないのかもしれない。イランの膨張も良いことずくめだけでない。(やまうち まさゆき)

 http://www.sankei.com/column/news/150420/clm1504200008-n1.html
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