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2015年04月18日15:33

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日野原先生「私はなぜ医者になったのか」



100歳を超えて今尚お元気で医療に、講演に活躍されている日野原重明先生、その講話集のなから、「私はなぜ医者になったのか」を要約抜粋しながら紹介します。

明治44(1911)年10月4日、私は山口県にある母の実家で次男として生まれました。当時の父の給料は非常に少ない上、男3人、女3人と子供が多いため、経済的にはとても貧しく、食べ物も着る物も質素な暮らしでした。冬になると、6人の子供と両親が一つのこたつで暖をとりました。

自転車に乗っている友達を見て、「僕も自転車が欲しいな」と思っても叶えられない、そんなつつましい生活でした。けれども、そんな生活の中で、少しの物を兄弟姉妹6人で分かち合う気持ち、ちょっとした物を与えられてもありがたいと思う気持ちが育まれました。

また、牧師の家庭でしたから、毎朝、聖書を輪読し、お祈りしてから、ご飯をいただいていました。

こうした子供時代の質素な生活が、感謝する習慣を身につけさせてくれたのだと思います。

私が10歳、小学校4年生のとき、母が尿毒症で痙攣を起こし、危篤状態に陥りました。尿毒症とは、腎臓の働きが落ちて意識がなくなることもある重い病気です。母はもともと慢性の腎盂腎炎という病気を患っていましたし、6回もの出産で腎臓を痛めていたのでしょう。

夜中でしたが、父がかかりつけの小児科医である安永謙逸先生を呼びました。私は、母が死んでしまうのかと思い、とても悲しくなりました。

安永先生が注射をしてしばらくたつと、ふっと痙攣が止まり、母は意識を回復しました。そのとき「ああ、安永先生にお母さんが助けられた」と感謝の気持ちをもったのです。

安永先生が注射をしているのを見るのが恐ろしくて、部屋の隅に行き「どうか、私の好きなお母さんが死なないように助けてください」と心の中でお祈りをしたことを、今でもはっきり覚えています。

このとき、医者とは、大切ないのちを預かり、そのいのちを助けるために夜中でも駆けつけてくれる人だと子供心にも感じ、自分も安永先生のような医者になればいいな、というかすかな思いが生れたのではないかと思います。

母は「安永先生は家が貧しいことを知っているからけっして往診料を取らない。申し訳ない」と言っていましたが、安永先生は「貧しい牧師の家庭だからこそ、代金など求めず喜んで行くのだ」と考えていたのでしょう。そんな先生の誠実な心が、子供の私にも伝わったのです。

世の中には、いろいろな職業があります。それぞれが大切な職業ですけれど、医者や看護師といった医療従事者の仕事は、ただ金を儲けるためだけのものではありません。人のいのちのために全力を尽くす職業です。これは、英語でいえば「プロフェッション(Profession)」です。

プロフェッションというのは、神様に「私はこのことに生涯を捧げます」と誓い、約束することです。プロ野球などのプロと同じ言葉ですが、自分の職業を通して神に仕え、人々のために尽くし、自分の身を犠牲にする覚悟をもった人のことではないかと私は考えています。安永先生はプロの鑑(かがみ)であり、私の前に現れた最初の人生のモデルだといえるでしょう。






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