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2015年03月18日23:04

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安倍政権と民主党で大論争、「言論の自由」は誰のためにある?

■安倍政権と民主党で大論争、「言論の自由」は誰のためにある?
(THE PAGE - 03月18日 07:11)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=177&from=diary&id=3324728

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 「言論の自由」をめぐって安倍政権と民主党の間で論争となっています。今のところ両者の議論はまったくかみ合っていないのですが、そもそも言論の自由とはいったい何を意味する言葉なのでしょうか。

 論争のきっかけは、安倍首相が出演したテレビ番組において、アベノミクスの成果について否定的なVTRに対して「おかしいじゃないですか」などと発言したことです。この発言が衆議院予算委員会で指摘されると、安倍氏は「私の考えを述べるのは言論の自由だ」と反論したことで、騒ぎが大きくなりました。

 民主党の細野豪志政調会長は12日の予算委員会で「正直言って衝撃を受けた。言論の自由だという発言への思いは変わらないか」と再度この問題を正すと、安倍氏は全く問題ないとの認識を示し、細野氏に真っ向から反論しました。翌13日の記者会見でも、民主党の岡田克也代表が「安倍氏の憲法観は根本的に間違っている。総理大臣だからといって何も言えないということではないが、そこは相当考えて発言しないと」と述べ、安倍氏の発言は、民主主義の根幹に関わる重大問題であるとの認識を示しています。しかし、菅官房長官は「総理大臣の地位にある者についても、当然憲法上の言論の自由は保障されている」として、民主党側の見解を再度否定しています。

 両者の違いは、憲法における言論の自由に対する考え方にあるようです。民主党は、言論の自由というものは、絶対権力者に対して国民が交渉して勝ち取ってきたものであり、憲法は基本的に権力者を縛るものという認識を持っているようです。国家権力側は国民を弾圧する手段(警察などの行政組織)を持っていますから、国民に対して言論の自由を保障する必要があり、権力側の発言は一定程度抑制されるべきという考え方です。

 一方、安倍政権側は、首相も国民のひとりであり、当然首相にも言論の自由が保障されているという考え方を提示しています。はっきりとは示していませんが、憲法は権力者を縛るものではなく、(首相も含めて)国民に対して権利を保障し、一定の義務も課すものという認識に近いと考えられます。

 現代民主主義においては、憲法は権力者を縛るものであり、言論の自由は一般国民に対して保障されるという考え方はスタンダードなものです。しかし現実にこの考え方が適用されている国は、米国や欧州各国など、一部の先進国だけです。統治形態としては民主主義の国であっても、シンガポールやロシアなど、こうした概念を持たない国もあります。

 今回の論争をきっかけに憲法はそもそもなぜ存在するのか、言論の自由とは何のためにあるのか、もう一度考え直してみるのもよいかもしれません。
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安倍晋三と言う人が自分の上司なら、まぁ意見の相違はあっても悪い人とは思えない。親戚のおじちゃんなら、そりゃちょっと変わった面白い人であろう。別に悪いひとじゃない。

だがどうして総理大臣安倍晋三となるとまぬけと感じるのか。もちろん、これはとても重要な問いかけである。言論の自由は、その国のもっとも立場のある権力者にも認められるか。その国のもっとも強い権威者を守るものであるか。

法は近代国家をリバイアサンと見做す。この化け物は、如何なる暴君よりも恐ろしい。それはフランス革命後の大粛清を見れば分かる。いくらルイが暴君だからと言って、あれほど殺しはしなかった。

近代国家の暴走はそれ以前のどの体制よりも凶暴であったし、科学技術の発展がそれを後押しした。その中において、法以外にその暴走を食い止める手段を持たないのが人類の到達したひとつの結論である。

故に、法はあらゆる権力を縛るものであって、それは権力から人民を守る盾である。この盾が食い破られた時、権力の前で市民はなすすべがなく、生贄とされる。この政治構造そのものは、17世紀だろうが21世紀だろうが変わってはいない。同じフレームワークで動いている。

法は市民を統制するルールであるのか、それとも権力を制限するルールであるのか。市民であるなら、最下層の人から最上位の人まで全員を含む。それは法の下での平等という思想である。もし権力のルールなら、権力に応じて、権利も制限されてゆく。

一般的に強いものほどその権利は制限され、無力なほど制限は解除される。それは暴走した時の被害の大きさに比例するのが合理的であろう。ならば言論の自由とは誰にも等しい権利ではないのか。おそらくYES。そうしなければ、まとまるものもまとまらない。

では権力者には言論の自由がないのか。これは現実と理想の折り合いの問題になる。そして多く権力者はこういう、近代思想をひっくり返すかも知れない問題には蓋をしてきた。

蓋を開けた所で得られるものはなし、実際権力者たるもの、その気になればなんとでもなる、という考えもある。決着を付けない方が良い問題というのはたくさんあるわけだ。どうせ論争が始まるだけだし、どちらも正しそうだし、すると決着を付けるのは正しいかどうかではなく政治的なものになる。

なら権力者たる自分の都合でどうとでもなる話だし、それなら、それをやって悪名を後世に残すこともない。影に読んで金を摘むか、警察で脅しでもかけとけば十分じゃないか。

という大人の対応をしてきたわけだけれども、そこに堂々と論戦を張るあたりが、いい人というか、無学というか、子供というか、馬鹿というか、間抜けというか、まぁ、そういう人である。

そういう議論は政治家を辞めてからやればいいのに、そうではならない。そのあたりが、とっても純真かも知れないけれど、純真なら許されるというわけでもない。地獄への道は善意で敷き詰められているものである。

言論の自由の大論争というが、自民党であれ、民主党であれ、こんなもの合理的な決着が付けられるわけがない。そんなのやる前から分かり切った事である。でも、誰かが否定しなければ、それが正しいと決着がついてしまう。それでは後々に困る可能性がある。だから今の最重要課題とは思えくとも、引くに引けやしなくなっているのである。解決法はひとつ。有耶無耶にする。それしかなかろう。

彼が開けた数々の扉は、それは新しい駆動を始めている。ただそれが30年後にどうであるか、は誰にも読めない。もちろん、100年の計を見据えてやったとも思えない。彼の視野はとても近いと思われる。

それでもこうして国を大きく動かしているのをどういう時代と言えるのか、知らぬ間に動き始めて、いつの間にか全然違うものになっているような気もする。気もするが、何も変わっていないような気もする。

この人が多くを進めているけれど、では何かが変わったかと言えば変わった感じはしない。これまで問題とされてきたことに何ひとつ決着を付けないまま、次のステージに進もうとしている感じはある。もちろん、時間が経って、古くなったから、というのも理由だろう。だけど、何かを刷新したから、次のステップに進んでいるという感じはしない。

同じ失敗をもういちどする可能性が高そうだなぁ、と思いながらも次のステップに進んでいる感じが強いわけだ。もちろん、幾つもの変わったものがある。それは多く、あれから5年以内に変わっていただ。本当は既に変わっていたのかも知れない。

それから長い間、待ってみて、もう十分ではないか、という話なのかも知れない。いや分からない。どうも、この分からなさを語るのに安倍晋三を何と呼べばいいのかを決めかねている。それがずうっと続いている状況だ。

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