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2015年03月05日19:30

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カッコいい名前

私は、知性を感じる名前がカッコいいと思うんだけど、そもそも知性がなきゃ付けられないわな。


欠乏感か。なるほど。
親の悲鳴であると。なるほど。
そして、将来子供が悲鳴を上げるわけだな。


もしも私に男の子が産まれたら、『ケビン』 か 『ギョーム』 と名付けたい。

キラキラか!
知性はどこに?w

女の子?
知らんわw

すでに46歳だわい。やかまし!



■「勇敢(かりぶ)」「雄(らいおん)」「響(りずむ)」…、なぜ「キラキラネーム」は生み出されるのか?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=140&from=diary&id=3303829


○キラキラネームは揶揄や批判の対象

少子化なのに待機児童が生まれるワケ

 「勇敢」と書いて「かりぶ」、「穂花」で「すいか」、「雄」で「らいおん」、「響」で「りずむ」、「莉勇人」で「りゅうび」。まるでクイズのようだ。これらは実在するものではないが、実際に名づけ相談の場で、相談者から候補として出された名前の一例。名づけ相談を受けた命名研究家の牧野恭仁雄が推していたら、小学校の名簿に載っていたかもしれない。

 こういった“奇抜”な名前に対して、一般的に2つの呼び方がある。ひとつは「ドキュン(DQN)ネーム」。「ドキュン」は、主にインターネットで多用される俗語であり、不良少年、ヤンキー、暴走族など、世間からあまりかしこいとされてない若者たちを指す。奇抜な名前に不快感や嫌悪感を持つ側からの呼び方である。もうひとつの呼び方は「キラキラネーム」。名づけた側が「輝かしい名前でしょう」と自画自賛する際に用いられるが、第三者が皮肉で使う場合もある。

 ドキュンネーム(キラキラネーム)は、揶揄や批判の対象として、世間を騒がせてきた。これら奇抜な名前を見て「個性がある」「感性がいい」と褒めそやす人は残念ながらほとんどいない。たいていは「親の知能やモラルが低い」「子どもがかわいそう」などと苦々しく思う。ときには「虐待だ」ともいわれる。

 しかしである。ここでドキュンネーム(キラキラネーム)に対する考察を止めてしまっては、事の本質にたどり着くことはできない。なぜ、奇抜な名前が生み出されるのか。『子供の名前が危ない』(牧野恭仁雄/ベストセラーズ)は、奇抜な名前(以降は本書に従って中立的に「珍奇ネーム」と呼ぶ)が量産される背景には、社会的な事情や個人の心理が働いていると分析する。


○かつての日本にも珍奇ネームはあった

 そもそも名づけには、時代や人々の価値観が大きく関わる。伊多知(いたち)、与呂志(よろし)、雷(いかづち)、真虫(まむし)、談(かたる)。一見ギョッとするが、日本で6〜9世紀あたりまで、ふつうに存在していた名前の一例だ。珍奇ネームの問題はいくつかあるが、主に「漢字の読み方がまちがっていること」「一見して読むことができないこと」「一定の層に不快感を与えること」などである。古代日本において浸透していた伊多知や与呂志などは、現代で人気がある大翔(ひろと)や陽菜(ひな)などと、特段変わりがなかったのだ。

 名前は世相を反映する。そういう見方で珍奇ネームを分析すると、納得いく部分が多い。

 大正から昭和初期にかけて多かった名前は、千代(千代子)、久子。全国に無医村がたくさんあり、子どもの死亡率が高い時代だった。昭和前半に多かった男の子の名前は、茂、実、豊、など。日本全体が食糧不足だった時代だ。女の子のほうでは幸子、節子が人気の上位を占める。女性にとくに求められていたのが節操や貞節、嫁いだ先での家族の幸せだったことがわかる。1937年の盧溝橋事件で日中全面戦争に突入したあたりから増え始めた名前は、勝利(勝)、勇、武、勲、進、など。太平洋戦争が終わる1945年に近づくほど、その傾向は顕著になっている。近代に入り、アメリカに追随するほどの豊かな国になると、愛や愛美の名前が目立ち始める。

 つまり、名前でわかる世相とは、日本人の欠乏感。名づけで子どもに望むものとは、多くの場合、名づけの親が不足していると感じるものなのだ。ちなみに、戦国時代の名将、武田信玄、上杉謙信、織田信長の名前で共通しているのは「信」である。徳川家康も、若いころの名は「元信」で「信」が入っている。謀略が渦巻き、人間が信じられなかった時代にあって、人々が飢えていたものが「信頼」であったことが想像できる。

 名前から少子化への推移傾向も読み解けるという。統計的に男の子の場合、シやジの音で終わる名前はほとんどが次男や三男。長男には少ない。「産めよ増やせよ」と出産が奨励された太平洋戦争から戦後のベビーブームまでは、ひろし、たかし、こうじの音で呼ぶ名前が毎年上位を独占している。しかし、少子化が社会問題となってきた昭和の終わりごろに急減し、1985年に人気5位から姿を消したあと、現在まで再登場していない。


○大自然と生きやすさの欠乏がキラキラネームを生み出した

 では、現代で欠乏しているものとは何なのだろうか。本書によると、ふたつある。ひとつは大自然。都市化される中で自然に飢えている現代人は、動物、植物、季節、海、空、天体など大自然への欠乏感から、駿、陸、海、空、花、杏、月などを名前に入れる。同時にスケール感や優しさへの欠乏から、大や優も人気だという。

 そして、現代で欠乏しているもうひとつが、生きやすさだという。これは、日本人の二極化に起因しそうだ。金銭的、能力的、モラル的に両極端に層が分かれつつある現代で、“別世界の住人”ともいえる異なる立場の相手に自分の価値観を認めてもらうのは、非常に困難。そうなると「自分たちだけの価値観で押していこう」という居なおりに近い考えが起こってくる。本書では、珍奇ネームをつける親は、愚かでも無神経でも無教養でもなく、ふつうの人たちばかりだというが、そんな“一見ふつうの親”が、なぜ「読めないかもしれない」「男女を間違えられるかもしれない」「人を不快にさせるかもしれない」ような名前をつけようとするのか。「そういう名前がカッコいいから」という、相談者が口にする本音に大きなヒントがあると、筆者は考える。

 人は多かれ少なかれ、無力感を抱えて生きている。その無力感を払拭するためには、ふたつのアプローチがある。ひとつは、努力をする、難関を突破する、何かを成し遂げるなど、「自分はこういう力を持っている」という優越感を追求すること。試合で活躍しているスポーツ選手や、秘境に立ち入る冒険家などにカッコよさを感じるのは、このアプローチによるものである。

 そして、もうひとつの払拭のしかたは、他人に自らと同じような劣等的な感覚を味わわせること。他人を威嚇したり、攻撃したりして、無力感を肩代わりさせるのである。本書によると、珍奇ネームをつけるのは、無意識ではあるが、親が抱える無力感や劣等感の代償行為に等しいとする。二極化で生きづらく、努力が報われない境遇に置かれた親は、「自分はこうありたかった」「自分にはこれがない」という悲鳴にも似た思いを、子どもに珍奇ネームを抱えさせるという形で肩代わりさせる。同時に、名づけの基本を無視することで「世の中の常識なんかに(自分は)左右されない」とのメッセージを無自覚で発しているのだ。珍奇ネームをつける親は、自分の名づけに自信を持っており、外部の目は気にしていないように見えるが、じつは誰よりも人の目を気にしている、と分析する。

 珍奇ネームは、現代社会全体で抱えるべき問題であり、現代に生きる私たちへの警告だと本書は強調している。二極化が解消され、今より社会や個人のあり方に柔軟性が認められる世の中になったとき、珍奇ネームはしぜんと影をひそめていくと予言している。
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