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2015年03月03日00:02

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「情の言葉」と「公の言葉」。

■「取り返しつかないことした」=18歳少年、謝罪の言葉―神奈川県警
(時事通信社 - 03月02日 21:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3299347

ふん。

高い金出して雇っている弁護士様だ、これくらいの因果は
含めるだろうよ。

「ひたすら黙秘、どうにもならなくなったらひたすら謝罪」ってな。

下らない。
クズのテンプレートのような対応だ。

このようなクズは、それに相応しく少年院なり刑務所なりで
たんと「可愛がって」貰うといい。
こういう弱い者殺しってのは、中でも嫌われるらしいぜ?

さて。

そのようなクズに対して、こうした場合一般大衆の
感じる思い、投げる言葉は、概ね「キツい」ものとなる。
今までも、様々な残酷な、無分別な、厚顔無恥な犯罪に、
それらの言葉は投げかけられて来た。

そして、そうした言葉が吐かれると、必ずこういう木霊が返ってくる。

「死刑などと安易に云い過ぎだ」
「自分の欲求の捌け口にしている」
「人権は天与のもの。剥奪を口にするなどどうかしている」
etc,etc・・・。

とても、綺麗で結構だ。

だがね。
これらの「いい子ちゃん」たちは致命的に間違っている。

こうした言葉は「感情の言葉」なのだ。

「厳罰に処すべき」「同じ思いを味わわせてやれ」
「少年法の廃止を」「死刑にしろ」

これらは、確かに「強い言葉」だ。
だからこそ、「キツい言葉」でもある。

そうすると、今度はこんな木霊が返る。

「そんな事を煽って、責任を取れるのか」

と。

だが、ここで問いたいのだ。

「責任を取る必要があるのか?」と。

確かにキツい言葉だ、過激な言葉も、過剰な言葉も
あるだろう。

だがしかし。

それを吐く人々の大半もまた、知っているのだ。

「そのような事には(悲しいかな)、まずならない」という事を。

被害者の少年がどのような辛酸と屈辱、そして苦痛を
受けて死んだのか、実感出来る者は誰も、いない。
ただ、当人のみであり、彼は最早口を利く事が叶わない。

だからこそ、「怒り」という「情の言葉」が噴出するのだ。
何故ならば、この実行犯達の誰一人にも。

被害者が受けた苦痛は、齎されないのだから。

その一種の「不均衡」に人々は怒るのだ。嘆くのだ。

そこに、「公の言葉」の入る余地は、一片たりとも、無い。

無論、司法、立法、行政、誰一人としてこういった凶悪事件において、
そうした「情の言葉」は使ってはならない。そこでは「公の言葉」のみが
唯一正しい言語なのだから。

だが、人々の言葉には「情」が大いに機能するのだ。
それは、人々が寄る辺とする大きな「良識」の樹なのだから。

それを一切弁えず、「公の言葉」の正当性(当然正当だ、「公」なのだから)を
振りかざす手合いには、正当な手続き、試験を持って資格を取り、
「公の言葉」の機能する場所へ行き、大いに発言すればよろしい。
寧ろ、そうすべきであるし、且つ又そうできないのは怠慢であり、
無能である。

我々は原則、「公」を動かす事は出来ない。
「法」も曲げられない(当然の事だ。法治国家なのだから)。

だからこそ。

血を吐くように云うのだ、「情の言葉」を。
せめても、天を衝けというかのように。




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