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2015年01月29日11:23

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中庸に学ぶ・・・「錦を衣て、絅を尚う」



「錦(にしき)を衣(き)て、絅(けい)を尚(くわ)う」

伊与田覚先生の「中庸」(致知出版)に書いてありました。以下、転載します。

「詩経」のなかに次の言葉がある。

「錦を衣て、絅を尚う」

錦のように麗しい着物を着て、その上に麻でつくった薄い上着を重ねる。
「絅(けい)」とは薄い麻の衣のこと。すなわち、きれいな着物に薄い上着を重ねてきるわけですね。

「其の文の著(あら)わるるを悪(にく)むなり」
なぜ、そんなことをするのかというと、錦というものは本当に艶やかできらびやかなものですから、その美しさが外に表れるのを嫌うためであると。

「故に君子の道は、闇然(あんぜん)として日に章(あき)らかに」
立派な人の道というものは、ちょっと見ると「闇然」、つまり、暗いように見えるけれど、日がたつにしたがって、それがだんだん現れてくる。

「小人の道は、的然として日に亡ぶ」
これに対して、普通の人の道はちょっと見たら目を見張るようになかなか麗しく見えるけれども、日がたつとだんだん箔が薄れる。

ここを読むと私はいつも、新建材というものを思い出すんです。新建材ができた時分は、ああ、いいものができたというので、どこの家でも取り入れたものです。新建材を使うと、見た目はえらく立派になるのです。ところが時がたち風雨にさらされると表面がはげてきて、えらく貧乏くさくなってしまう。新建材は見たところはいいけれど、10年か15年もせんうちに色褪せてきよるんですね。

これが立派な檜(ひのき)なんかを使うと、建てた時分は香りはいいけれど、ちょっと落ち着きがない。ところが、50年ぐらいたつと、だんだん値打ちが出てくる。そこからさらによくなっていくのは200年ぐらいたったころです。それが300年なり500年なりと年季が入るほど値打ちが出てくる。

これは人間も同じです。それが「君子の道は、闇然として日に章らかに」なっていくといこと、ここには東洋文化の特徴である奥床しさというものがあります。表面はあまりけばけばしていないけれど、内面がよろしい。

・・・・・・中略・・・・・・

闇然というのは、まさに東洋的奥床しさを表す言葉です。人間というのは美しさをそっと内側に囲むところがなくてはいけません。

ところが「小人の道は、的然として日に亡ぶ」で、小人は新建材のようにきらびかやかだけれども、そのうち表面がはがれてしまうということです。

これと同じ内容を表す言葉が「老子」にあります。
「褐(かつ)を被(き)て玉を懐(いだ)く」
という言葉です。

褐というのは、錦の逆で粗末な着物ということ。こうした着物を着て、ちょっと見るとあまり冴えないけれども、懐には宝玉を抱いている、という意味です。ここでいう宝玉とは教養と捉えてよいでしょう。それがしっかり積まれて、内に溜まっておると。

実際、一見すると目立った人物ではないけれど、交わりが深くなり、その人の話を聞けば聞くほど、次第に魅せられていく人がいるものです。

私が大きな影響を受けた人に、高田保馬という京都大学の社会経済学を創始された方がおりました。この方などは、まさに「褐を被て玉を懐」いた人でした。なかなかの歌人で、学識は非常に深く、大阪大学や同志社大学などの経済学部創設にも大きな役割を果たした人です。

高田先生は和風を愛用されていましたが、袴の裾はほどけ、だらーんと垂れて下がっているなど、服装なんか少しも構いません。しかし、話を聞くうちに、十人が十人、惹きつけられるような魅力あふれる人でした。

また、山田無文という優れた禅僧もおりました。この人もさまざまな苦労を重ねているだけに、演壇に上がってするお話をじっくり聞いていると、いつの間にやら演壇からはみ出すような大きな人間に見えてくるのです。

このお二人などは、内容があれば外見をつくる必要もない、ということをまさに身を以て示された方々でした。

「中庸」という書物は、外見ではなく、東洋的な奥ゆかしさを求めているのです。




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