新年の祝詞を述べるはずが、思いもよらなかった訃報です。
斉藤仁が死んでしまいました。
あんなに強かったのに、やっぱり死んでしまうのですね。
http://news.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&p=%E6%96%89%E8%97%A4%E4%BB%81&ei=UTF-8
山下泰裕が選手強化の第一線を退いてずいぶん経ちますが、その間の柔道界の不祥事を全部背負い込むことになって、最後は癌で死んでしまいました。
重荷を背負わされやすい人だったのかな、と思います。
昭和63(1988)年のソウルオリンピック。
このオリンピックから、オリンピック柔道での無差別級が廃止され、重量級選手は、各国一人しかオリンピックに出せなくなりました。
60キロ以下級から95キロ以下級まで、総崩れになった日本柔道陣の最後に控えた95キロ超級の彼が、東ドイツのストールを破って金メダルを取ったとき、日本中からどれほどの安堵のため息が漏れたことでしょう。
どれほどの柔道人が、彼に感謝したでしょう。
あれで、日本柔道の発言力は、国際的にいくらか延命したのです。
重荷を背負わされやすかったり、頼まれごとを断れない人柄だったのかもしれません。
平成3年3月でしたが、私が大学卒業後(まだ大学院に進む前)、最初に教壇に立った修徳高校の卒業生謝恩会で、講演の講師として浅草ビューホテルまで来てくれました。
「いやぁ、私も謝恩会で講演するというのは、まったく初めてなもんですから、何をお話ししたらいいのかよくわからなかったんですけれども、生徒さんたちの門出にということですので、素直に、私の今までをお話ししようと思います。私は青森県の・・・・」
23歳の私は、教員席に居ましたけれど、彼の靴ばっかり見ていました。
靴底の面積の広さばかりを目に焼き付けてしまいました。
いま45歳以上の、かつて柔道をやっていた人は、昭和60年4月29日のことを忘れていませんよ。
セルゲイ・ノビコフだってアレクセイ・チューリンだって勝てなかった山下泰裕(やました やすひろ)を、確かに彼は追い詰めたのです。
私は、ユーチューブを普段はあまり見ませんが、本日は検索して、改めて見てしまいました。
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