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2015年01月17日11:18

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20年前の思い出

うちの近所(豊中市庄内地区)は、揺れ自体は神戸淡路に比べると大した事はなかったけれど、老巧化したポンコツアパート・文化住宅が多くて(木造・三階建ての文化もあった)倒壊はしなくても居住不能になった建物がやたらと多く、借りていたアパートも「修理不能」で全壊認定となった。(だから、私、一応「全壊」の「被災者」です。)

 実家は屋根と床が一部壊れた程度だったが、近所の体育館や公民館が避難所となって被災者の方があふれるほどになっていた。しばらくして「伊丹の空港騒音対策」で空き地となっていた場所に仮設住宅が続々と建てられて、ニュースで観るような被災地のような状態となってきた。

 一方、電気ガス水道などのインフラはすぐに復旧し、スーパーやコンビニ・商店街には普通に商品が並んでいたので、半分被災地、半分普通の街だった。物はあるから、震災後一週間位は、兵庫県ナンバーのスクーターが夜昼となく、数台のグループとなって「買い出し」に、ただならぬ勢いで押し寄せて来ていた。「目的を持って走る奴は速い」と、妙に感心したものだ。

 震災後数日たって、宝塚の友人とようやく連絡がつき、「御殿山中学の体育館にいる。」との事だった。近所のダイエーにいったら、震災の翌日は開けていたが建物の損傷が判明して危険の為閉店しており、もう一件のスーバーで買い出しをした。阪急電車宝塚線は止まっていた。バイクに積めるだけの食べ物だのジュースだの(自販機・お店が全部止まっていて飲み物が無い、との事だった。)を積んで、国道176号を走った。

 石橋を過ぎたあたりから、ニュースに出ているような大渋滞で、車は一センチも動かず、隙間をバイクがちょろちょろと走っていた。あまりの渋滞で、バイクも次第に走れなくなり、いつの間にか数台のバイクが一列になって西に向かっていた。どうにもこうにもならなくなった時、どうも横の空き地の柵を持ち上げたら通れる様だ、という事が分かり、身も知らぬ何人かで交代で柵を持ち上げて皆のバイクを通した。あの時の皆さんは、お元気だろうか。

 体育館に着くと、ニュースで観ているような避難所の風景だった。友人は一家全員無事。となりにおられたのは、友人のおとなりのご一家だったそうで、後で「良い友人をお持ちですね。」と声をかけられたそうだ。

 「会社」は大阪市内だったので、震災の翌日から仕事には行ったが、アパートの片付けやら、実家の修理の手配やら何やらで、なにやら、しばらく「大変だった」という事しか覚えていない。

 あの、「あの状況の中のあの時の追いつめられた気持ち」というのは、今はもう分からない。本人にも分からないものを他人が理解できるはずもない。ただ、あの頃、「事情はわかるけれど」「状況は理解しとるが」と言われると猛烈に腹が立った事だけは鮮烈に覚えている。

 写真の奥が借りていた「全壊」のアパート。手前の隣のアパートは、二階部分の壁が外に傾いている。うちのアパートも二階は外に向かって開くように壊れ、二階にお住まいの方によると、室内から「空」が見えたそうだ。
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