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2015年01月17日08:31

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京から江戸への交通路について

平安の昔から西国から関東地方への交通は確立されていた。
古くは平将門を征伐に京都朝廷が兵を差し向けた。江戸時代には銚子の醤油や外房のいわしが肥料として運ばれた。
当時のこの経路は水路だった。現代なら京都から江戸なら東海道を使えばいいし、外房から江戸なら国道51号線だ。
しかし、当時は水運が利用されていた。
京都から関東にたどり着いたら銚子に上陸して陸路を通るか、利根川をさかのぼって埼玉側から東京に入ったようだ。
銚子から利根川・江戸川を経由して江戸東京にいたる航路のことを「内川廻し」と呼んで、江戸時代から戦前までのこの航路は地域間交流の幹線として江戸東京の発展に貢献した。
河口には息栖・銚子があり佐原や小見川が拠点だった(現在の国道51号線)、利根川沿いに発展したのが栗橋・古河・境・取手・布川・木下で、江戸川沿いには行徳・市川・松戸・流山・野田・関宿が発展した。
これが現在の鉄道や国道の基礎になったようだ。

利根川沿いの木下に「吉岡まちかど博物館(http://goo.gl/FEvlxw)」がある。これは私設博物館で利根川の交通の資料が展示されているらしい。ただ、私設なので常設というよりも時々公開されるという方が実態に近い。「開館日」は上記のWEBで確認してほしい。
映像がyoutubeに掲載されていたので紹介する。



ちなみに「木下」の読みは『きおろし』ね、難読地名!



※成田山新勝寺の縁起は平将門を討ちに来た朝廷軍が、守り神として不動明王の像を担いできた。将門を討ったのちに引き返そうと鹿島に向かった(往路は京都から鹿島に上がって、河を利用して江戸に入った、帰りはこの逆を辿ったようだ)間もなく鹿島に着くというときに不動明王が急に重くなって動けなくなった。そこで、現在の成田に社を立てて安置して帰った。これが新勝寺の縁起だという。(本当はもって帰るのが面倒になったんじゃないのかと邪推している)
このことからも、当時は海路で銚子近辺に到着して河川を利用して埼玉側から江戸に入ったことが推測される。

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