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2015年01月15日08:58

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上杉鷹山の財政改革



上杉謙信ゆかりの名門「上杉家」は、家康によって米沢(山形県)へ移された。
かつての栄光も次第に薄らぎ、江戸時代中期には、破産寸前に追い込まれている。

この危機を救ったのが上杉鷹山(うえすぎようざん)であった。


このままいけば、藩の財政が破綻するのは時間の問題だ。今、何をなすべきか。
鷹山には、ハッキリと見えてきた。

まず、自身が経費節減の手本を示した。
藩主の生活費を、これまでの7分の1に抑え、食事は一汁一菜、衣服も高価な絹を使わず、すべて粗末な木綿で作らせた。

そのうえで、家臣にも節約を命じたのである。主君の日常を見ているので、家臣たちも心から従うようになっていった。

さらに、年中行事の中止、餞別や祝いなどの贈答の禁止、慣例の見直しなど、不要、不急の支出を大胆に削っていった。

しかし、急な改革に反発し、
「これでは上杉家の体面が保てない、元に戻してもらいたい」
と一部の重臣が結束して抗議してきた。体面を気にしてきたから、藩がつぶれようとしているのに、まだわかっていない。

鷹山は少しもひるまなかった。非難が的外れであることを、一つ一つ証明していき、改革にブレーキをかける者には、重役といえども厳罰を与えたのであった。

節約の次には、収入を増やす積極策が必要だ。
ある日、鷹山は学問の師・細井兵州に尋ねた。
「わが藩が貧しいのは、荒れ地が多いからです。これを打開する方法はないものでしょうか」。

「荒れ地が多いのが原因とお気づきならば、答えはハッキリしています。一日も早く、開墾に取りかかるべきです」。

鷹山は眉をしかめて、つぶやく。
「そのことなのです、悩みは・・・・。開墾を奨励するには多額の経費がかかります。その当てがないから困っているのです」。

兵州は微笑を浮かべて、
「それは、さほど難しいことではありません。ただ、殿様のご決心一つにかかっています」と答えた。

鷹山、しばらく考えていたが、やがて明るい表情になった。
「うむ、分かった。すぐ実行しよう」
と言って、鍬を40挺ほど作らせた。

これを近臣に分け与え、城を出ていったのである。着いた場所は草ぼうぼうの荒れ地。
早速、鷹山が先頭に立ち、鍬を持って耕し始めたではないか。常識を打ち破る行為であった。このことは、たちまち国じゅうの大評判となった。

最も驚いたのは農民たちである。
「殿さま自ら、この国のために鍬を持って働いておられる、我々が休んでいるわけにはいかない」と積極的に開墾に乗り出した。

武士の意識も変わった。プライドを掲げていても、藩がつぶれたら意味がない。まして主君が率先垂範しているのである。

皆が一体となって草を刈り、土地を耕し、農業の発展に尽くした。同時に、養蚕や織物などの特産物にも力を入れたので、藩の財政は少しずつ好転していった。

「成せば成る 成さねば成らぬ 何事も
     成らぬは人の 成さぬなりけり」。

鷹山の名言である。

まさに、この言葉どおり、彼が改革に着手して33年目にして、借金をほとんど返済することができたのであった。

それだけではない。荒廃していた米沢は、美しい農業国家に生まれ変わっていた。

上杉鷹山は、次のような戒めを後継者に与えている。

「国家は子孫に伝えるものであって、私にしてはならない。
 人民は国家に属する人民であって、私にしてはならない」。

私心なき、まっすぐな姿勢が、家臣や領民の信用を得、不可能と思われた改革を達成したのである。

以上、木村耕一「まっすぐな生き方」(1万年堂社)より。


上杉鷹山の人間味のあるやさしさ、と、いざという時の決断の見事さと非情さの両面について、今まで日記で取りあげましたので、以下、再度紹介します。
・・・・・童門冬二「上杉鷹山」(人物文庫・学陽書房)を参考にしました。



<やさしさ>

「妻を見舞ってこよう」。
治憲(鷹山のこと)はひとりつぶやくと立ち上がった。部屋を出がけに、手製の紙の鶴を持った。

自分で折った紙の鶴を持って妻の部屋に行くと、妻は、
「ああ」
と、顔じゅうをほころばせた。

その表情は夫を迎えるというよりも、むしろやさしい父親を迎えるという顔つきであった。
妻のこの表情と向きあうたびに、治憲のこころはいたむ。

妻の名は幸(よし)という。しかし、この世に生を受けて以来、何と幸せとは縁のうすい女であろう。幸は生まれたときから障害者であった。

からだのうごきも不自由であったが、脳の発育も子どものままでとまっていた。

他家(九州日向の高鍋の秋月家・3万石)から養子に入って、名門の上杉15万石を継いだ治憲は、上杉重定の長女である幸姫と結婚した。しかし、幸はふつうの結婚生活にたえられるからだはない。
「側室をおもちなさい」
上杉家の家臣が、結婚直後、そんなことをいった。

幸姫とはおもてむきの夫婦として暮らし、実際の性生活は側室となさってください、ということなのだろう。

が、治憲は首をふった。
「その必要はない」
「しかし」
不審な表情をする家臣に、治憲はほほえんでこう告げた。
「私はまだ17歳だ。がまんができる。その必要があるときは正直に頼もう。第一、妻の幸姫はこの世の人間ではない」
「は?」
「幸姫は天女だ。天女をうらぎってはならぬ」
家臣は黙した。そのまま頭をさげてうつむいた。治憲のことばの意味がよくわかったからである。

治憲にとって、妻の幸は、まさしく天女であった。人間の世の汚れをまったく知らなかった。疑う、ということを知らなかった。
自分にやさしくしてくれる者は、無批判・無制限に信じた。なついた。

はじめての対面は、あるいは異様であったかも知れない。しかし、治憲はまったく心の動揺を感じなかった。治憲は、
(生涯を、この娘のそばで送ろう)
と決意したのだ。青年らしい純粋な決意であった。

治憲は、幸姫をよろこばせるために紙で鶴を折ることをおぼえ、布で人形を縫うことをおぼえた。
「そのようなことは、私どもがいたします」
と、侍女たちがとめたが、治憲は首をふっていった。
「幸殿の人形は、私の手づくりでなければならぬ」
治憲が持ってきた折り鶴に、幸姫はチラと目を向けたが、彼女の関心は鶴にあるのではなかった。
「ああ、うう」
とよろこびの声をあげながら、治憲の手をとって自室の奥にみちびいた。

父の重定は、この不幸な娘をふびんに思い、財政に苦しむ藩の費用の中ら、
「幸にできるかぎりの世話をしてやってくれよ」
と、調度や玩具にかなりの金をかけていた。ないものはない、といっていい扱いだった。

が、幸が治憲に示したのは、そういうぜいたく品ではなかった。幸は小さいそまつな布の人形をとりあげた。それは、きのう治憲が幸に与えた手縫いの人形であった。幸は人形の顔をゆびさして、
「ヨシ・・・・ヨシ・・・・」
と懸命に治憲に何か伝えようとしていた。

「うむ? ヨシがどうしたのかな」
ほほえみながら治憲は、人形の顔を見た。そして、思わず、
「おお」
と声をあげた

きのう幸に渡したとき、治憲は人形の顔に何の手も加えずに、のっぺらぼうのままにしておいた。
が、幸は、その顔に、墨と紅(べに)で、眉毛や口や鼻を描いていた。口は赤く塗ってあった。

手のうごきが不自由でなので、顔のえがきかたは決して整然としてはいなかったが、幸の努力の跡ははっきりあらわれていた。

「幸殿、よく描けた・・・・」
治憲は、率直に感嘆の声を出した。本心であった。

顔をのっぺりにして渡したのは、その白い空白に、幸が自分で手を加えると思ったからだ。
手を加えるということは、不自由なからだの持つ能力を、いま表に表れているものと、そうでなく、まだ幸のからだの奥にひそんでいるものを、両方合わせて、幸が自分でひきだそうと必死に努力することだ。
現代のことばでいえば、自身の能力開発に必死になる、ということである。

それを、幸はみごとに成し遂げた。たとえ不ぞろえであっても、自分で人形の顔をつくりあげたのだ。
しかも、その顔を、ヨシ、ヨシというのは、どうやら、
(この顔は、私だ)
といっているらしい。

その努力を治憲にみとめてもらいたいのだ。きっと鏡を見ながら、そこに映る自分の顔を一生懸命、人形の布に描いたのだろう。その努力を思うと、治憲の胸は熱くなった。

治憲はニコニコと人形の顔を見つめ、
「うむ、そっくりだ、これは幸殿にそっくりですよ」
と幸にうなずいた。

とたん、幸は、
「ああ、う、う」
と前にもましてよろこびの声をあげ、女中たちに、
「ヨシ・・・・ヨシ・・・・」
と、得意そうに自分の顔と人形の顔とを相互にゆびさした。

幸のすぐそばにいた老女中は、
「はいはい、お屋形(やかた)さまのおおせられるとおり、この人形はまさしくお姫さまでございます」
と感をこめてうなずいたが、うしろのほうにひかえている若い女中たちは、そっと目頭をおさえた。涙がこみあげてきたからである。治憲がまだ17歳にもかかわらず、こんな分別に満ちたやさしさをみせるのに、胸をうたれたのであった。

女中たちは一様に、
(幸さまは、おしあわせだ)
と思った。

やがて、治憲は、
「幸殿、私はまだ表(おもて)(役所のこと)に用があります。また、まいります。今日の人形の顔は本当によく描けました。幸殿にそっくりです・・・・・」
そういって、そっと幸の顔に手をあてた。そうすると、幸は、治憲の手に何度も何度も自分の頬をすりつけて、
「ああ、う、う・・・・」
と、からだの底からのよろこびを示すのであった。

それが、治憲と幸との、夫婦としての唯一の肉体の接触であった。脇にいる老女中もさすがに指を目にあてた。

その老女中たちに、
「頼むぞ」
と声をかけて治憲は立ち上がった。

感謝のきもちを眼いっぱいにみなぎらせて、手をついて見送る女中たちに、
「うん、頼む」
もういちどそういうと、治憲は幸姫の部屋を出た。そして、廊下を渡りながら、
「あの天女のためにも、絶対に米沢藩を潰すわけには行かぬ」
と改めて思うのであった。

幸姫の死後、形見として届けられた小児同然のその着物を見て、幸姫の父・重定は初めてその実情を知り、障害ある娘を鷹山に連れ添わせた不明を恥じ、いまさらのように養子鷹山の可憐さと誠実な志操に慟哭したと言われています。


<きびしさ>

安永二年六月二十六日未明、奉行千坂高敦・色部照長、江戸家老須田満主、侍頭長尾景明・清野祐秀・芋川延親・平林正相らが登城して七人連署の訴状を鷹山に提出、「直々のお裁きを」と迫りました。
 
そして無礼千万にも、
「小藩秋月家のお生まれでは、大家の格式はお解りになりますまい。
  理屈は要り申さぬ。竹俣を降ろすか我々を辞めさせるか、即刻ご返答
  願いたい」
と、座敷に閉じ込め、主君である鷹山を逆臣たちは囲み、入口へは出ていけぬようにして、延々四時間もねばりののしれ、芋川延親は立ち上がろうとした鷹山の袴の裾をつかんだのです。

無礼を見かねた小姓の佐藤文四郎秀周が次の間より走り出て、芋川延親の手を扇子で思い切り打ちつけ、老侯の重定に急報します。七人の無礼に激怒して駆けつけた重定が一喝を加えると、ようやく七人は引き下がります。

義父である重定の翌日「全員に切腹を申しつけよ」と興奮の収まらぬ老侯をなだめながら、鷹山は訴状の内容について入念な調査を始めました。

先ず藩士の行状を監視する大目付・仲の間年寄・御使番らを召出し、訴状記載の事実の有無を質します。召集者中には、当綱が取り立てた役人は一人も含まれていませんでした。

一同が訴状の内容(鷹山の罪を問う)を全面的に否定すると、次に三手組(馬廻・五十騎・与板)の代表者を召出します。そして訴状の事実無根を確認した鷹山は、竹俣以下諸役人の控える書院に老臣どもを呼び出し、須田・芋川両名の切腹、千坂・色部の隠居・閉門等々、23歳の若い藩主とも思えぬ断固たる決裁を下します。
 
それから2カ月後、この事件の張本人が、行状怠慢のため退けられていた儒者藁科立沢であることが判明し、藩内随一の碩学と言われた立沢は、斬首の刑に処されます。

こうして《七家騒動》と呼ばれる保守派老臣の謀反事件が収まると、二年後には、鷹山は須田・芋川の子孫に家督を許し、他の5人の閉門も解きました。

この鷹山の<やさしさ>と<きびしさ>について、何度読み返しましても、襟を正す厳粛な気持ちになります。


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