の道歌より
その中から私が感銘した文章です。
精一杯尽くす「いま」を重ねる
(前略)さていよいよ明日は食う物がないというときには、釜も膳碗も洗う心もなくなるという。人情としてはまことにもっとものことであるが、この心は、困窮がその身を離れない根源である。なぜなら、日々釜を洗い膳碗を洗うのは、明日食うためで昨日まで用いた恩のために洗うのではないというのだが、これは心得ちがいだ。たとえ明日食べる物がなくても、釜を洗い膳も碗も洗い上げて餓死すべきだ。(後略)・・・・・夜話201
幼い頃から特に学校の先生たちからはよく言われました。
「(高い)目標を定めてそこに少しでも近づくために努力をしなさい」と。
・・・中略・・・
ある方からこんなことをうかがったことがあります。会社が倒産に追い込まれそうなほど赤字が続いたとき、未来の安定経営のためにどれだけ経費が削れ、無駄が省け、リストラができるか・・・・・を考える方法があります。
一見、正当なようですが、これは実際にはかなり現場を抑圧し、敵対感情を生み、社員の士気を下げ、衰退への道をすすむ可能性と隣り合わせだそうです。
他方、会社のはじまり(過去)に戻って考える方法もあると言われるのです。きっと多くの人が「お客さんに喜んでほしい!」という熱い想いとともに設立に携わったことでしょう。その想いのおかげでこの会社が生れ、そして、少なくとも社員はみなその恩恵を受けてきた。ならば、その想いに立ち返り、そのうえで現状をみて、自らの行動の仕方(茶碗の洗い方)を考えよう。各自がもっとアイディアを出し、知恵を絞り、できる工夫をしようじゃないか・・・・・と呼びかけるのだそうです。
つらく犠牲的な行為のあとには幸せな未来が待っているはずだからがんばろう!という声。過去や現在の尊さや面白さを充分に味わってがんばろう! という声。
どちらがキラキラとした活力(倒産寸前からの再建への行動やいきいきした二年生の活動や心をこめた茶碗洗い)を生むのか・・・・・。
少なくともわたしが後者の声によってはじめて力を発揮できるタイプであるのは、金次郎の血をひいたせいかしら・・・・・などとしみじみ感じてしまうお話でした。
(以上)
日々釜を洗い膳碗を洗うのは、明日食うためで昨日まで用いた恩のために洗うのではないというのだが、これは心得ちがいだ。たとえ明日食べる物がなくとも、釜をあらい膳も碗も洗い上げて餓死すべきだ・・・・。
「いままで役立ったご恩のために洗うのだ」という金次郎の言葉に、私はこん棒で殴られた思いになりました。猛省、猛省でした。
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