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2015年01月13日01:01

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「究極の許し」・・・・大石順教尼



大山澄太さんの「般若心経の話」(潮文社)に思わず目頭を熱くさせられた素晴らしい話があります。

昭和43年に81歳で故人となられた大石順教尼で、両手を失って仏門に入り尼となられ、口だけで書かれた書画も一流の方の話です。


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大石順教尼は俗名よね、大阪道頓堀の「寿しや」の子として生まれましたが、4歳の頃から踊りが好きで、学校に行かず芸者になりました。「妻吉」というのが芸名でしたが、妻吉の名声は見る見る花柳界に高まったのです。

17歳のある夜、恋に狂った中川万次郎は妻吉のいた部屋に乱入。目指す相手はいなかったが、狂った彼はそこにいた6人の芸者を切りつけました。
5人は殺されましたが、妻吉1人は両腕を切り落とされ、右耳から口まで切られてしまった。

妻吉の苦悩は、他から見ても悲惨の極みでした。傷がいえた彼女は生きていく道として寄席に出るようになりました。華やかであった芸妓(げいこ)さんが、不具の身を大衆の前にさらしたのす。

19歳になって、イロハから習い、口に筆をくわえて字を書くことをはじめました。
その妻吉を愛する人があらわれました。ある日本画家です。両手がないので女中さんに住み込んでもらったが、やがて夫の愛がその女中さんに移っていったのです。

ある夜、妻吉は見てはならぬ光景を見てしまいました。昼も夜も、妻吉の暗い心が荒れに荒れ狂う。嫉妬、怨み、呪い、いかに自分を自分で叱っても、心は狂い乱れる・・・。彼女は両手のない身でよかったと思いました。もし、両手があったならば勝気な自分はどんなことをしたかわからない・・・。してみると両手のないことがありがたく思われたといいます。


大正7年、スペイン風邪が全国をおそった時、その女中も病んで重体となりました。妻吉は一生懸命、看病しました。ある夜、病人は痰が出そうになるが、それを吐き出す力もないほどに衰弱している。そこで、手のない妻吉は、自分の口を病人の口にあて、その痰を吸いとってあげたのです。

病人は泣いてよろこびました。
妻吉を拝んだ、妻吉も泣きました。

互いに敵として、憎みあった女二人が愛憎を超えて、心が結びついたのでした。絶対の無我の愛です。

流感の治ったその女が、母親になろうとしている。二児の母親である妻吉は、愛する夫と別れるか、わが子をどうするか、夫と愛する人にゆずるか、この三角関係のなかで子は宿り、また生まれてこようとしている・・・・・。三日三夜、涙のかれるほど泣き、もだえた。そして一歩、前進、愛と憎しみをこえて信仰の一路に生きたのでした。

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私は順教尼のことをまとめながら、目頭が熱くなってきて仕方がありませんでした。
法句教で「まことに、他人をうらむ心を以ってしては、どうしても、そのうらみをとくことは出来ない」、「ただ、うらみなき心によってのみ、うらみをとくことが出来る」といわれたお釈迦さまの教えを、彼女は全身全霊を以って実行されたのでした。

そして、「究極の愛」というものの厳しさと、その遠さに、私は大きく溜息をつくばかりでした。


「ゆるし」とか他への寛大さ。これもその人が本物かどうかを見極める一つではないでしょうか。

★ゆるしとは、日常における崇高な行為である(ウラディミール・ジャンケレヴィチ)。
★私は攻撃された。でも、心の奥にいる本当の私は無傷(作者不詳)。
★誰かを許さないということは、囚人を閉じ込めておくための看守の仕事を24時間やることと似ている(ジャンボルスキー)。


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