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2015年01月12日10:33

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中村久子さん──人生に絶望なし!  生き抜く言葉


「日本のヘレン・ケラー」中村久子さんは次のように言います。

「人の命は、つくづく不思議なものです。
 確かなことは自分で生きているのではない、
 生かされているのだということです。
 どんなところにも必ず生かされていく道がある。
 すなわち人生に絶望なし。
 いかなる人生にも決して絶望はありません」。


3歳の時になった「突発性脱疽(だっそ)」という病気とは、高熱のため肉が焼け骨が腐り、細胞が壊死する病気で壊疽(えそ)ともいわれ、血行障害によって、組織が一部腐る病気です。

そして、母あやの厳しい躾、運命を恨むのではなく受け入れて生きることを久子に諭した。
そして、あやは自分がいなくなった後、残された久子が一人で生きていけるようにと、厳しい躾を始めたのです。

来客があってもかくまうのではなく、礼儀作法を教え、読書、書道などを厳しく教え厳格な教育を授けた。裁縫や食事も自分で出来るように鍛えたのです。

そんな彼女が、1937年(昭和12年)、41歳の時、東京日比谷公会堂でヘレン・ケラーと出会うのでした。

(ヘレン・ケラー ・・・・・アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家。
聴力、視力、言葉を失う「三重苦」の障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くした)。

久子は口を使って作った日本人形をヘレンに贈りました。

ヘレンは久子を抱きしめると「私を世界の人たちは奇跡の人と言うけれど、あなたこそ、真の奇跡の人です」と言った。
自分以上にたいへんな傷害を抱えながら、挫けることなく、明るく強く生きている久子を「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛しました。

母親のしつけのあまりの厳しさに、恨みこそすれ感謝の気持ちなど抱いたこともなかった。

「恩恵にすがって生きれば、
 甘えから抜け出せない。
 一人で生きていかなければ」

恨み続けた厳しい母・あやの深い愛に気付いたのでした。
久子は、このとき初めて泣いた。

「人生に絶望なし」
「人は肉体のみで生きているのはありません。
 人は心で生きています」
久子は、50歳頃から執筆や講演などの活動を始めた。

京都西陣でも十指に入る仕立て職人として名を知られ、書家としてもその名を高くした。
彼女の活動は、全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた。
65歳の時に厚生大臣賞を受賞。

1968年(昭和43年)、脳溢血により高山市天満町の自宅において波乱に満ちた生涯に幕を閉じる。享年72。


無手無足、障害を乗り越えた中村久子さんの数々の生きる知らを紹介します。

◆どんな所にも、生かされてゆく道がございます」

「良き師、良き友に導かれ、かけがえのない人生を送らせて頂きました。今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は両手、両足のないこの体でした」

◆『無手無足』は、私が仏様から賜った身体です。この身体があることで、私は生かされている喜びと尊さを感じています」

◆逆境こそは本当に私の恩寵だったのでございます」

◆さきの世にいかなる罪を犯せしや拝む手のなき我は悲しき」

◆手はなくも足はなくともみ仏の慈悲にくるまる身は安きかな」

◆どんな所にも、生かされてゆく道がございます」

◆人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるの。

◆母は「出来るまでやってみること、やれないことはやってみないからなの」と言うので部屋の掃除・火をおこすこと・寝具の上げ下げなど出来るまでやりました。
でもどんなに苦心して何十回、何百回やっても出来ないのは、着物を着たり、帯を結ぶこと、髪を結うこと、これだけは出来ませんでした。

◆四つの年から手足が無いのですから、途中から不具になられた傷痍軍人さん方の事を思えば、もっともっと出来ねばならぬのです。

◆「さきの世に いかなる罪を犯せしや 拝む手の無き 我は悲しき」

◆中村久子の歌「ある ある ある」
さわやかな 秋の朝
「タオル取って頂戴」
「おーい」と答える 良人がある
「はーい」と答える 娘がおる
歯を磨く 義歯の取り外し 顔を洗う
短いけれど 指のない 丸い 強い手が
何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある
ある ある ある みんなある
さわやかな 秋の朝

◆手足なき 身にしあれども 生かされる 今の命は尊かりけり。

◆どんな所にも、生かされてゆく道がございます。
人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望しない。

◆人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるの。

◆「無手無足」は仏より賜わった身体、生かされている喜びと尊さ。

◆人の命とはつくづく不思議なもの。
 確かなことは自分で生きているのではない。
 生かされているのだと言うことです。
 どんなところにも必ず生かされていく道がある。
 すなわち人生に絶望なし。
 いかなる人生にも決して絶望はないのだ。

◆「両手両足を切り落とされたこの体こそが、人間としてどう生きるかを教えてくれた最高最大の先生であった」とこう断言する。



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