長い間、日記を休んでしまいました。
9月以来バタバタしているためときり書きませんでしたが、
ネット上では同居人と表現していた僕の妻が癌を患い入院していたためでした。
その同居人ですが、癌の進行が早く、12月18日の早朝逝ってしまいました。
20日に通夜、21日に葬儀が終わり、ようやく僕の生活も少し落ち着いて来ました。
そこで、皆さんにご無沙汰してしまった事をお詫びしながら、
同居人の事など書いておこうと思いました。
同居人は7月に腹痛を訴え、近所の婦人科の病院に行きました。
そこで卵巣癌と診断され、自治医科大学付属病院を紹介されました。
自治医大は僕の家からだと車で45分程度かかります。
家の近くには済生会宇都宮病院や県立がんセンターなどがありますが、
自治医大が卵巣癌の手術例が多いとの事で納得しました。
8月中は、検査や手術の準備で通院し、
9月2日に入院、4日に手術を受けました。
しかしながら、病巣を全部取り切れずに一部残ってしまいました。
その次の抗癌剤治療に期待をしたのですが、
卵巣癌にも幾つかの種類があって、
同居人の癌は症例の少ない極めて珍しい癌との事でした。
抗癌剤治療による副作用で白血球数が低下し、感染症を起こしてしまい、
これに対処するために時間が掛かりました。
何とかコントロール出来るようになり、一旦は自宅に戻れたのですが、
別の薬による抗癌剤治療を始めたところ、この抗癌剤が効かず、
医師からは緩和ケアを勧められる状態になってしまいました。
緩和ケアが満床で順番待ちをしていましたが、
緩和ケアの医師が自宅近くの病院の方が良いでしょうとの事で、
済生会宇都宮病院への転院を手配してくれました。
その移送の当日、出発の1時間ほど前から、容態が急変し危篤状態になりました。
同居人は転院を渋っていた感じもあったので、
今になると、転院を決めた事がどうだったかとも思ってしまいます。
転院を渋っていた理由が、そんなに珍しい癌ならば、死亡後に是非解剖して、
今後の卵巣癌治療に役立てて欲しいとの気持ちがあったからでした。
病床にありながら死亡後の病理解剖を申し出ていて、主治医を驚かせていました。
それだけ、自分を苦しめた癌への憎しみや悔しさがあったのだと思います。
危篤になってからも、2日ほど頑張りましたが、
18日の早朝、僕と子ども2人、姉夫婦に見守られながら旅立ちました。
享年58歳でした。
医師から緩和ケアを勧められた時に、年を越す事は大丈夫だと言われていたのですが、
医師の予想を越える癌の進行だったのだと思います。
何の準備もしていなかったので、葬儀等の手配が大変でしたが、
多くの方に来て頂き、元の職場の人などから、
僕の知らない同居人の話を聞かせてもらって、
改めて同居人の素晴らしさを知る事が出来ました。
同居人が癌と診断されてから、僕はどうしたら良いのだろうと考え続けて来ました。
結局、出来るだけ一緒にいてやる事以外思いつきませんでした。
幸い、今の僕の仕事は比較的時間が自由になります。
職場の人達には迷惑を掛けましたが、
少し早く職場を出て病院に行ったり、用事のない時には休んだりと、
同居人と顔を合せなかった日は、ほとんどありませんでした。
一緒に色々な事を話しました。
病気にならなければ、こんなには話さなかったような気がします。
葬儀後、多くの人からアッと言う間だったねと言われましたが、
僕としてはかなり長い期間だったように感じています。
それだけ濃厚な時間だったのかも知れません。
同居人が心配していたのが、長男の病気と僕の生活でした。
次男は、幸い婚約者が出来て、同居人を何度か見舞ってくれました。
長男の病気は、今のところ落ち着いているようですし、
僕も暗中模索ながら、一人の生活を始めつつあります。
昨日は落ち込んでいる僕を心配した長男が、
NBAプロバスケットボールの、リンク栃木ブレックスとトヨタ東京の試合の
8000円近くするコートサイドのチケットを手配してくれて、一緒に観て来ました。
同居人と何試合かブレックスの試合を観て来ましたが、常に2階の自由席でした。
同居人の遺影を持参して行きましたが、
実際に観せてやりたかったと思う位、その迫力に感動しました。
これからは、家事の合間に、これまで感じた事などを含めて、
少しずつ書いて行こうと思っていますので、
従前のようにお付き合い下さるようお願い申し上げます。
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