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2014年12月22日09:59

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沖ヨガの喜働、謝働、悦働





菅原兵治「大学味講」より。

労道の三要素について、このように述べています。
世間では「労働」という一部分だけを取りあげて、「労道」としての取りあげ方を忘れているのではないでしょうか。すべて物事の本質に立って、時間的にも空間的にも、その全体を処理するのが「道」に立つゆえんであるが、労働もその通りで、「労道」までに止揚されねば本物にはならぬでありましょう。

思うに「労道」には次の三要素があるのであります。
一、勤労
二、疲労
三、慰労

「勤労」すれば「疲労」する。その「疲労」を「慰労」して回復しておかなければ、その次の「勤労」に支障をきたして、満足な仕事が出来なくなるのであって、その意味からいえば、「慰労」は「勤労」と同等の比重をもつものといえましょう。

こうしてみると、古人が「利」や「楽」を重んじたことは、いかにも思慮が深く、かつ広いことであります。

・・・・以上。



沖ヨガの師・沖正弘先生は、労働には喜働、謝働、悦働があると次のように述べています。

世間一般では、仕事をすることを労働といっている。労働とは自分の労力を、時間と金のために切り売りすることである。これは動物的な表現である。

この場合の要求の対象となっているものは、時間と金である。この人の心の中には、できるだけ時間を短く、できるだけ金だけは多くという心境にある。

この労働という考えの上になっている場合、働く人と仕事を提供する人との関係は金銭的雇用の関係であって、人間的関係ではない。ここには心の結ばれはない。

この労働という考えの方は、唯物思想に立脚した欧米思想の一つの誤りの表現だ。日本人との思想の大きな違いを表している。

まことの働きとは、本来は、謝働・悦働であるべきであるが、その前段階に心の喜びのために働くことを、喜働であります。

この喜働からが人間としての働きになる。
まず喜んで働くためには、自発的自主的であること、心を中心とすることが必要である。この時に初めて人間同士の気合いで働くという姿になる。

自分と他の喜びを一緒にした自他一如の生き方をすることが肝心である。
感謝と奉仕の心から、自分のものを他にささげさせていただくために働く心、これが謝働である。

さらに心境が進んで、法悦三昧の心で仕事をするのを悦働という。
この心を持って働けるのが、本物の人間としての心で、これをヨガの心といっている。

・・・・以上。





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