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2014年11月24日12:43

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近江聖人・中江藤樹の脱藩



中江藤樹は内村鑑三が「代表的日本人」(岩波文庫)の中で、日本を代表する五人としてあげている西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・日連上人とともに、その一人に選ばれています。
中江藤樹の門下生である熊沢番山の考え方は明治維新の原動力ともいえる吉田松陰などにも影響を受けています。・・・約400年前の人。


この中江藤樹は親孝行であるすばらしい方でした。

近江藩の農家に生まれ、江戸時代の初期に9歳のときに米子藩の武士の家に養子に入った後、国替えのため、伊予大州藩に移ったものの、実の母親が病気になったのです。
この母親の病気の看病のために、辞職したいと願い出たものの藩は認めません。この時に、母親の看病を人に任せるなどするのではなく、中江藤樹は脱藩したのです。脱藩とは犯罪です。その罪を犯しても母親の看病、『孝』を尽くしたのです。
そして、京都に潜伏後、近江で私塾を開かれた訳なのです。


当時、脱藩の罪は大変重く、その辺の事情を童門冬二「中江藤樹」(学陽書房)に次のように書いてあります。

こういう状況の中で、与右衛門(中江藤樹のこと)は計画を立てた。

・大洲藩を脱藩する。
・もらった扶持は、藩に米で返納する。
・借財関係も全部清算する
・おそらく、脱藩後、討手が差し向けられるであろうから、
 京都の友人学者藤田立軒のところで討手を待つ。
 上意だということで、討手が斬りかかってきた時は、
 潔くこれを受ける。あるいは、切腹が上意だと告げられれば、腹を切る。

そう考えていた。


つまり、脱藩してそのまま近江に逃げ帰ればいいという考えは持たなかった。脱藩は大きな罪だと思っていた。武士意識があった。そこで、
「犯した罪に対する罰は潔く受ける」
という考えを固めた。

寛永11年(1643)10月末、中江与右衛門は密かに大洲の城下町を離れた。
(中略)
この時、与右衛門は27歳である。

京都の友人藤田立軒のところに行って、
「こういう訳で、藩を脱してきた。討手を待つので、しばらく居候させていただきたい」
と頼むと、藤田は目を見張った。が、
「いいでしょう」
と頷いた。与右衛門は、
「今年いっぱい、討手を待つつもりです」
と告げた。藤田は、
「結構です」
と居候を認めてくれた。与右衛門が、
「持ち金はこれしかありませんが」
といって、持ってきた金を差し出すと、藤田は首を横に振った。
「水臭いこといいなさんな。あなた一人ぐらいのお世話はします。討手が来るまで、学び合いましょう」
と、学者らしい態度を取った。与右衛門は感謝した。藤田は、与右衛門が連れてきた従者の面倒もよく見てくれた。
(中略)

与右衛門が脱藩したと聞いて、藩主の加藤泰興は烈火のごとく怒った。
「私の面目が立たぬ。すぐ討手を差し向けろ。与右衛門を打ち果たせ」
と命じた。が、松山城にいた加藤伝左衛門が必死の勢いで止めた。
「そんなことをすれば、よけい事が荒立ちます。与右衛門は、この願書にあるとおり、母親の最期を見届けた上は、必ず帰参すると誓っております。これを信じましょう。与右衛門は学者ですので、決して偽りは申さないと存じます。どうかお堪(こ)らえください」

平田助右衛門も止めた。松山城には与右衛門の同郷の先輩である中村長右衛門や、吉田新兵衛、中川貞良などもいた。この連中も必死になって懇願した。泰興の怒りは次第に鎮まった。やがて、
「中江の奴め、主人を馬鹿にしおって」
と怒りの呟きを漏らすにとどめ、
「わかった。追っ手は差し向けなくてもよい。不問に付せ」
と命じた。こういう事情があったからこそ、与右衛門がいくら、
「いつ討手が来るか?」
と、京都の友人藤田立軒のところで待機していても、大洲からは人が来なかったのである。
以下、略。




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