mixiユーザー(id:6972928)

2014年11月11日18:17

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判断基準

正確にはセカンドオピニオンとは呼ばないのだが、
同一医療機関内で複数の専門医にかかっている場合に
それぞれの専門医がそれぞれの専門の観点「のみ」から
全く異なる処置を示唆する場合は往々にして有り得る。

セカンドオピニオンは、狭義では
全ての治療情報を治療機関と繋がりのない
他の医療機関の別の観点を持つ医師に開示し
治療方法に関する意見、示唆を得ること。

但し、一般には同一治療機関内の複数の医師(同じ専門であっても)から
それぞれ意見を得るような場合もそう言われているらしい。

患者からすれば

「複数の意見が得られる」

という状況を見ると同じこと。
前提となる医療情報が完全かどうかの背景なんて
医師の反対側にいるような患者に考慮されるワケがない。


先日、身内の実例だが、
内蔵、特に消化器系内科医の診断と
血液循環器医の診断が全く異なり、
イラッとしたことがある。

まず、消化器系内科医は消化器の検査結果から、
良好な経過であるために
診断日はそのまま帰宅すれば良いと示唆した。

身内は

「問題なく帰宅できる」

ということで浮かれてしまい、
次に血液系の診断告知が控えていることはそっちのけで
よかったよかった、帰ったらあれだこれだと、
確定的に帰宅を決めつけてしまっていた。
わからんことはないが、治療治癒とか言う本来の目的を置き去りに
「入院」というその事象が嫌だったようである。

その後の血液系内科医の診断は正反対で
その診察日はそのまま1日入院をし、
透析ではないが血液の成分調整のような処置をして
一晩かけて経過観察を行わないと
極めて深刻な命に関わる問題になるか、
若しくはその日は放置して別の日に大々的な手術を行わなければいけない、と。

血液系内科医は端から
成分調整と一夜の観察処置を続けるか、
成功の可能性はさほどな大手術をとるか、という二択で話をしてきたので

「ちょっと待て」

と。


正直、医師同士で意見を統一してから診断結果の通知をしろ、とコメントした。

世間にセカンドオピニオンという風習が流布してきているのは
時代がそうあったからだとは思うが
判断基準が適切な治療治癒ではなく
自身の我儘になってしまった老人に対しては
全く有効ではなく、むしろ逆に働く。

自分がこうする、という思い込みを思い通りにすることが目標になってしまった老人には
都合の良いコメントしか耳に入らない。

そう、都合のいいコメントだけしか耳に入らないんだよ。

そんなことも分からずに医者をしているのか?と思うと
ホントに

「医療ってなんなん?」

と思う。

患者に判断させる、という選択肢はあっていい場合と
下手に設けると大変面倒なことになる場合がある。


そのイラッとしたわたしのコメントで
身内は「帰宅していいと言われた」と反論するのを止め、
医師は病気の根源が内蔵より血液にあることと
そのために同じ専門医同士でも血液系内科が主治医になることを
改めて強調して説明し、
嫌そうな顔をしながらも、その日は1日入院でことを終えた。

セカンドオピニオンは
主治医の見解で見落としている部分や抜け落ちている新情報などを

「補完」

して、より適切な治療を行うという観点からは有効だろう。
方法がいくつか考えられて、そのうちの一つを
患者の恐怖感、生命観、経済状況などなども含めて考慮し選択する、
というフェイズに於いて有効なものである。

しかし、それぞれの専門分野のみを見て
反発しても不思議ではない
(つまり、悪くないところしか見ていない医師は「問題ない」といって当然)
意見が複数個提供されるような馬鹿げた状況を
なぜ医療は放置するのか?

むしろ、「治癒」という観点を
自身の病気であっても尚、客観的指標から
判断できなくなってしまっている患者に於いては
余計な選択肢なんぞ提供すべきではなく

「こうだ!」

という先導的立場での医療示唆指導ができる一意的、断定的な
旧態のままの医療体制も必要なのではないか?


ま、責任逃れをしておかなければいけないから、
多少正論から外れても世相っぽいシステムでしか動けないんだろうな。
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