九月初旬の日曜日の朝、珍しく愚弟より架電有り。愚弟は離婚後に実家に戻り、現在は老母と同居しています。
リーーン、リーン！
「ハイ石川です」
「あんちゃん、母ちゃんがたいへんだぞ」
「だうした。母様の世話はいつも大変に決まってゐる」
「げぇげぇ吐いて、うんこもびぃびぃで、熱も３９度ある。りこうなあんちゃんが言ふには、満州であんちゃんが変なもの食はせたんだらうって。何食はせた」
愚弟は、私を「あんちゃん」と呼び、昭和３７年元日生まれの長兄を「りこうなあんちゃん」と呼びます。愉快ではありませんが、私を「ばかなあんちゃん」と呼ばないだけマシです。
「さうか。おれも母様と同じものしか食はないが、なんともない。俺は心臓の薬を飲んでゐるからなんともないのかもしれぬ。ためしに母ちゃんにも俺の薬を飲ませてみやう」
「しんぞうはうんこと関係あるのか、あんちゃん」
「わからん」
「いま、ちょっとりこうなあんちゃんに聞いてみるよ」
「さうだな。そのはうがいい」
五分後、愚弟より再び架電有り。
「りこうなあんちゃんが、まず市立病院の休日外来に連れて行けって」
「さうか。ではさやうに計らへ」
さて、さて。我が家で葬儀となれば１１年ぶり。本来は昨年８月に私の葬儀のはずでしたが、１年延びたわけです。念のためですが、コンビニエンスストアでお金をおろし、張り切って喪服と数珠と諸連絡先のリストを用意して自動車に乗り、午後に松戸に向かいました。
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実家に到着すると、老母が台所でズーズーとお粥をすすっています。
「えぇ、こんにちは母様。このたびはまことに御愁傷様です。まう治っちゃったのですか」
「治ってはおらん。治ってはおらんが、病院で注射打たれたら間もなく熱が下がって、そしたら昨日からなんにも食べてないから腹が減ったので粥を作って食べてゐるのだ」
「さうですか。まうすこし病人やってればいいのに」
「まだまだ病人だ。粥を食べ始めたが、だうも一人前しか食べられない」
「いつも一人前でいいのです。これからは常時おかゆ一杯だけになさい。さうすれば７０�圓泙蚤僚鼎�落ちるでせう」
「うーむ。鍋一杯作ってしまった。こんなに食へぬ」
「鍋一杯ぢゃありません。お茶碗に一杯だけにしておきなさいと言ってゐるのですっ！葬式で棺桶を担ぐ者の身にもなってください」
「うむ。けふはまう茶碗一杯でやめておかう。ちょっと横になるから、おまへ鍋に残ったお粥食べていけ」
「ハイ頂戴しますから、早く横におなりなさい」
鍋の粥にみじん切りのハムと溶き卵と三つ葉を散らし、ちょっとゴマ油を垂らして中華風にするとおいしくなったので、私が全部食べてしまいました。
さて帰宅しようかと老母の元へ挨拶に行くと、眠ってはおらず、ねころんで『地球の歩き方 大連・瀋陽・ハルピン 中国東北部の自然と文化』を眺めています。
「またそんなものを見てゐるのですか。今回の病気は旅行の疲れですよ。まう海外旅行は無理なのです。今回の満州でおしまいにしませう」
「さうはいかん！一週間程度の旅行など何ほどもない。見よ見よ、この地図を。母にとっては馴染みの場所が目白押しだ。大連で満鉄の本社ビルに入ったら『特急あじあ号』の写真を飾ってあっただらう。子供の頃に雑誌で見て、母もあれに乗りたかったもんだ」
「母様は満州出身ぢゃないでせう」
「出身ぢゃないが、あのころは開拓団や満鉄の社員ぢゃなくても、みんな気軽に満州へ行ったのだ。今なら、九州の湯布院へ行くやうなもんだ」
「でもパスポートが要ったでせう」
「むう、それは知らぬ」
「パスポートが要ったのですよ。テレビで李香蘭がさう言ってました」
「母はこないだ１０年間のパスポートを作ったばかりだ。問題ない。山口淑子とおんなじだ。」
「むかうは婆さんになっても中々美人でしたがね」
「それは親の顔がちがふのだから仕方がない。見よ見よこれを！こないだはハルピンと旅順と大連しか行かなかったが、ハルピンまで行けばハバロフスクがこんなに近いではないか！」
「近いったって、母様・・・」
「老ひたる母に一目ロシアを見せてやらうという気持ちがないのが、おまへの親不孝なところだ」
「だって母様、ロシアのビザを取ってゐなかったんだから仕方ないぢゃありませんか」
「なんと！ロシアはビザが要るのか」
「えぇ、要りますよ」
「ロシアはまだソ連やってるのか」
「ソ連はまう店仕舞ひですがね、ビザが要るかだうかには関係ないです。アメリカだって要りますよ」
「なんと！共産主義の支那に渡るのにビザが要らぬといふに、アメリカやロシアは要るといふのか」
「要るものは要るんだから仕方がないでせう」
「けしからん！まるでインドとおんなじだ」
「インドビザの手続きは全部私がやったんだから、母様が怒ることぢゃありません！」
「見よ見よ、息子！ウラジオストック・ハバロフスク・牡丹江（ぼたんこう）・錦州（きんしゅう）・・・・あれあれ、ええと、奉天（ほうてん）と新京（しんきょう）がないぞ」
「奉天は瀋陽（しんよう）、新京は長春といふ地名に戻ってゐます。戦争に負けたからですよ」
「あぁ、この広大な大地を、アメリカに負けたばっかりにみんな持って行かれてしまったのか。あな悔し」
「次は必ず勝ちますよ」
「さりとて、おまへ。公彦（愚兄）は喘息持ちで健司（愚弟）は知恵遅れ、おまへは大動脈乖離では、我が家には甲種合格が一人もいない」
「甲種合格ではなくっても、地雷を抱いて敵戦車の下に飛び込むくらいはできるでせう」
「ばかもん！今時そんな戦争があるか！そんな戦争をするやうになってはおしまひなのだ。母のアルミの弁当箱まで潰して飛行機を造って、それでも勝てなかったではないか！まったく、おまへのやうな馬鹿もんと話してゐるとほんたうに病気になってしまふ！」
「はいはい、さうですな。まう満州の地図を見るのはおやめなさい。血圧が上がりますよ」
「みんな馴染みの地名ばっかりなのだ」
「茨城県稲敷郡江戸崎町出身なのに、なんでそんなに満州の地名に馴染みがあるんです」
「ふむ、おまへも知ってゐやう。ＮＨＫのラヂオで『尋ね人の時間』ってのをやってた。それでしょっちゅう聞いてゐたからだらうな。」
「知りません」
「なんと」
「知りません」
「なんと！ほれ、ＮＨＫのラヂオで『尋ね人の時間です』って、やってゐたであらう」
「知りません」
「そら、ハルピンのナントカ通りで食堂をやっていた誰々さん、東京都千代田区内幸町のＮＨＫまでお手紙でご連絡ください。うちそとの『うち』に『さいわひ』ですっ、てやつ」
「さういふ番組は終戦直後でせう。私の世代は知りませんよ」
「そんなことはない。母がこのうちへ嫁に来てからもしばらくはやってゐたから、少なくとも昭和３０年代の終はり頃まではやってゐたはずだ」
「あの、母様。私は昭和４２年生まれですから、昭和３０年代のラヂオ番組は知らないですよ」
「なんと！おまへはそんな若造であったか。若いくせに偉そうに。もっとオッサンかと思った」
「はい、少しはオッサンですが、そこまでオッサンではありません。まう帰りますから、お大事に。何か食べたいものがあったら買ってきてあげやうと思っいましたが、まだしばらくはお粥になさい」
「怒ったら平目の刺身が食べたくなった」
「さういふものは、しばらくダメです！ぢゃ、さやうなら」
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後日、昭和３７年生まれの愚兄にも問い合わせてみましたが、やはり『尋ね人の時間』という番組は知らないとのこと。
しかし、ウィキペディアを見たら出ていました。番組名は『尋ね人の時間』ではなく『尋ね人』だそうです。
復員兵や抑留者、引き揚げ者たちからの投稿を淡々と読み上げる情報交換番組だったとのことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8B%E3%81%AD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%99%82%E9%96%93
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