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2014年10月18日14:40

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目的は手段を正当化しない。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3100739

ふむ。

それにつけても言論人、新聞、メディアの
打たれ弱さよ。

つうか、この人たち、こんなにへなちょこで
大丈夫なのか?
もっと自信持ってやんなよ。

朝日新聞は日本を愛しているし、
旧日本軍は、戦地で悪行の限りを尽くしたし、
ヘイトスピーチをやり続ければ、世界から日本は孤立するんでしょ?

俺がもっと支えてやらんと!って百万馬力に
なる筈なのに、この「皆弱い存在なのです。
過ちも犯せば、手段を間違う事はある。それを、
調子に乗って叩くのは、みっともないですよ?」
というおずおずとした態度にしか出れないのかね。

日本の言論をリードして来たんでしょ?
謝る所は謝ったんでしょ?
すねに傷はもうないんでしょ?
自分たち(この場合は朝日のみ。そこに寄稿してきたり
同種の発言、文章を書いた事は一切触れず、だがね)の
情報ソースは残念ながら間違っていて、証拠は無いけど
軍隊は悪い訳でしょ?

もっと頑張らないと、

「日本だって、言論を圧殺するような連中が政権を
取らないとは限りません」

なんて事態になっちゃうかも知れないんだからさ!


さて。

皮肉はこれくらいにして、本論に入ろう。

結局の処、「目的は手段を正当化しない」、
これだけだ。

記事中で、田原は云う。

「朝日が主張したのは戦時中の日本の軍隊は
決して良くなかったんだ、ということです。
その要因の一つに慰安婦問題があり、
追及する過程で『吉田証言』を報じた。
でもそれは虚偽だった。それは『売国』行為なのでしょうか」

と。

まず、テーゼとして「戦時中の日本の軍隊は
決して良くなかったんだ」と云う。これが、
何と(何処の軍隊と、と云ってもいい)比べての
事なのか分からないので、とりあえず、良くない
日本の軍隊が「某かのよくない事」を戦地において
したのだな、と云う事「だけが」が分かる。
そして、「よくない事」をしたと断じて批判する事には、
証拠がいる。
それが、慰安婦問題があり、追及する過程で『吉田証言』
であった。
処が「でもそれは虚偽だった」というアンチテーゼが
提出された。

ここで、田原は驚きの思考停止を見せる。

まず、(ヘーゲルの)弁証法の確認。
ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、
もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、
そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つから
なる正・反・合を全てのものは持つ、という事だ。

では、この場合の田原はどうか。

正=「戦時中の日本の軍隊は決して良くなかった」
反=「でもそれは虚偽だった」
合=「それは『売国』行為なのでしょうか」????

確かに、それは「売国行為」ではない。では、何なのか?
「話をそらした」だけだ。

この場合、弁証法的に田原自身の確信(戦時中の日本の軍隊は
決して良くなかった)を確立する為には、「合」は
「虚偽ではない証拠を持ってして日本の軍隊の悪行を
批判する」が正しいのであろう。
そして、それが新たな「正」となり、更に新たな
「反」が提出されて、更に「合」の精度が
上がって行く(日本の軍隊の悪が糾弾されていく)。
弁証法の理想であり、基本だ(だからこそ、弁証法は
危険であり、多用してはいけないんだがね)。

これを行わずに、「悪い事を『したに違いない』(現段階で
その証拠はない)のだから、それを批判するのは間違い」
では、後に出てくる論者の「レッテル貼り」を田原もまた、
行っているに過ぎなくなってしまうのだ。
ジャーナリストであるのであれば、「では、新しい証拠を
持って糾して行こう!」となる筈であり、またそれは
義務でもあろう。それを怠る者に、ジャーナリストたる
資格はない。

そして現在、その「レッテルの質」が問われている。

我々は、大なり小なり「戦後教育」という物を受けてきている。
そこでは、戦前戦中の日本は批判の対象でしかなかった。
だが、それでも、戦後間もなくは「戦争を清算する言葉」に
対しては皆慎重であった。それはそうだ。
それは即ち「加担した者たち」の言葉であったから、だ。

だが、記事中にもある通り、
「戦後70年で初めてと言える、重大な社会現象と捉えるべき」
事態となっている。

まず、極めて粗雑なレッテル貼りを新聞がやるようになった。
それが、今回の虚偽事件だ。裏も取らず、証拠もないにも関わらず、
「戦時中の日本の軍隊は決して良くなかった」という事を証明する
為だけに、記事を次々と書き上げた。そして、それは国際社会にまで
届いた(この一事を以ても「売国」というのは有用なタームだと
個人的には思うがね)。それを社内では批判はされず(出来ず、らしい。
最近の証言などを読むとね。嗤うべきだが)、検証もされなかった。

レッテルは、機能したのだ。

そして、それは遂に批判検証される時が来てしまった。
その粗雑さ故に。

だが、それは言論人、メディア人には不満だ。
何故か?

「戦時中の日本の軍隊は決して良くなかった」

のだから!

非常に可哀想な事だ、とも思う。
彼らは(記事中に代表されるような人たちが出ている)、
その過去に貼った「粗雑なレッテル」を、無条件に
飲み込んでしまった人たちなのだ。
だからこそ、彼らは悲しむし、怒る。
「そこまで云う事ないじゃないか!」と。

だが、問題は悲しい程、其処にはないのだ。
そしてまた、彼らの言説(言い訳、としてもいい)は
結局の処、先ほど自分が書いた「そこまで云う事ないじゃないか!」
に要約されてしまう、その程度の物である、という事が
またもの悲しい。

確かに、「売国奴」「国賊」というレッテルは、粗雑である。
強すぎるタームは、それを劇薬と等しく、扱いに注意するべき
であろう。

これは、田原の

「売国、国賊、ですか。本来、決してメディアや
言論人が使ってはならない言葉です。
視聴者からの批判と違って、メディアが
この言葉を安易に使うのはまずいな、と心配しています……」

という言葉に一片の正当性がある程度の「粗雑さ」だ。
批判するメディアもまた、粗雑なのだ。
これは、大いに批判されるべきであるが、同時に
それは、「だから朝日は悪くない(=反省している)」という
事とイコールにはならない。

どちらも粗雑で、レヴェルが低い、というだけの事だ。
もう一度、「戦後70年で初めてと言える、
重大な社会現象と捉えるべき」という言葉を曵こう。

確かに、その通りなのだ。
新聞が生まれてから、およそ400年。
また、現在のような大衆紙が生まれてからは、およそ100年。

このような形で、批判が喉元に刺さる事など、無かったのだから。
今までは、「購読の停止」という形でしか(乃至は暴力的テロ)
表明出来なかった批判に、晒されだした事に対して、言論人、
メディア人は、哀れな程狼狽えている。
従来は、前者は無視し、後者は攻撃する事が出来た。
だが、現在のような形の批判には、どうする事も出来ない、
と彼らは心情を吐露してしまっている。

そのようなメルクマールに、

「戦後の朝日新聞がだれかを殺したり、
女性を暴行したりしたでしょうか。
日本を本当におとしめたのは、軍事力をもって
他国に踏み入った戦前の日本国と日本軍ではないですか? 
批判すべき先を間違っていませんか」

などという頭が悪いにも程がある言説は、全く無用であるのだ。

この記事中の全ての言説に(これは、冒頭に引かれた抗議デモの
言説もの云える事ではあるが、それはまた別のお話)「目的は
手段を正当化しない」という批判が当て嵌まる。

そんな下らない馬鹿たる高橋源一郎さんにも。
ひとつだけ、良い言葉があったので、それを引用して
この日記を閉じよう。

意味する処は180°違うのだがね(笑)。

「批判しないことは容認することと同じだからです」

良い事云うじゃん!!
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