今の気持ちを素直に言葉にするなら、タイトル通りかもしれません。
東京 サントリーホール
京都市交響楽団東京公演
広上淳一指揮 京都市交響楽団
ピアノ独奏 ニコライ・ルガンスキー
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調
(アンコール メトネル :Canzona Serenata op.38-6)
マーラー:交響曲第1番ニ長調『巨人』
(アンコール R.シュトラウス :歌劇『カプリッチョ』から間奏曲「月光の音楽」)
サントリーホール完売御礼。こんなこと、京響始まって以来のことではないのかしら?前から僕は繰り返し繰り返し書いているけれど、なぜ、こんなことが起こったのか。なぜ、あんなにも客がはいらなかったオケの演奏会に、これまでの人が集まるのか。奇しくも、今日の朝、ホテルのラウンジで目にしたモストリークラシックで広上さん自身が語っているように、「メンバーを変えたわけでもない」し、「特別なことをしたわけでもない」のに。
その答えは、今日の演奏そのもの、ではなかったか。
正直言って、ここまでの「熱演」をこのオケから聴いたことはない。絶対にない。あまりの熱演ゆえに、逆に鉄壁の京響ブラスらしからぬ傷があったりしたのも事実だし、弦のアンサンブルがピアノとの間で軋むような危うい瞬間があったのも事実。でも、それは「今日の素晴らしい音楽の一部」であって、そこにあった全てが、紛うことのない「広上京響の音楽」。それが存在した、東京においても堂々と聴衆にその姿を示し、そして温かく、むしろ熱狂的に受け入れられた、その事実は覆し様のないもの、と思います。
この10年、ぐすたふくん、コンサートゴーアーを続けてきました。きっかけは、大阪頑張れ、大フィル頑張れ。大植英次の献身、大フィルの健闘、そしてそこに生まれる熱い熱い音楽。そこに居ることの至福。僕は、それを欲し、それを愛し、それにどこまでも着いて行こうと決めた。
対して、京響はどうであったか。あえて言いますまい。ぐすたふくんが、長く、何処と無く身を引いたスタンスで関わっていた、ということ自体がその証左。
でも今は違う。この音楽があるのなら。
演奏技術、合奏技術、響きの精度・・そんなもの、当たり前のことであって、聴衆にとって、僕にとって、そんなことよりも、なによりも・・・・・
こんな音楽が、この音が、欲しいんです。
今日の巨人の4楽章、広上淳一の棒は、どこまでも彼岸を目指した熱い弧を描く。それがオケを滾らせ、聴衆の胸を熱くする時、みんなが幸せになれる。「生きているということ」、なんと素晴らしいことだろう。
広上さん、京響のみなさん、こんな聴衆が居ること、決して忘れないでくださいね。そして
今日の日をありがとうございました。
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