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2013年12月31日12:17

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笙野頼子「二百回忌」

 平成25年12月30日(月)。
 毎晩寝ているというより気を失っている丸美先生である。
 今日も平成二十四年と平成二十五年に頂いた年賀状を持ち、近くの大型スーパーの休憩コーナーで葉書の住所書きをする。
 携帯端末に登録した住所録も使う。
 家族の分もあるので、かなりの量となる。
 学校時代の担任や同級生には、
「同級生でフェイスブックに集まっています」
「国会デモで石を投げる元気な人もいます」
「**さんは高名な写真家になっていました」
 など書く。
 やっかいなのが、亡くなった人で、自分の分なら、星新一先生、柴野拓美先生、嬉野泉(菅原豊次)先生、兜木励悟さん、今邑彩(今井恵子)先生と確実に外して行けるけど、ほかは分からない。
 亡くなったとばかり思っていた親族から葉書が来ていると、もう、笙野頼子先生の第110回芥川賞候補作品「二百回忌」の状態。
 笙野頼子「二百回忌」(新潮文庫)
 http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E7%99%BE%E5%9B%9E%E5%BF%8C-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%AC%99%E9%87%8E-%E9%A0%BC%E5%AD%90/dp/4101423210
 この作品については、丸美先生は以前、「読みつぶし2万キロ」に、このように書いた。
「「二百回忌」とは耳慣れない言葉であるが、これは、
『死んだ身内もゆかりの人々も皆蘇ってきて法事に出る』(新潮文庫・43ページ)
 といった行事であるらしい。
 死んだ人が蘇るとは妙だけれども、この辺りは、婚礼、葬儀など、親族関係の行事に顔を出してみれば経験するように、親族とはいっても、親等が離れてしまうと、もう誰が誰であるかなんか分からなくなってしまうものである。
 大きな旧家になってしまうと、なおさらの事で、そのあげく、死んだとばかり思っていた人が、ひょっこり顔を出したりする事もあるわけで、作者は、その辺りの感覚を、
「死んだ身内も(中略)皆蘇ってきて」
 と表現したのだろう」
 とにかく、あやふやな分の葉書は出してしまう事にする。
 コンビニエンス・ストアで公共料金の支払い。
 ラジオ韓国(1170kHz)・受信記録(20:45〜22:00)。ニュース(ウオン高円安。日本の安部総理大臣が靖国神社を参拝。漢江が結氷。全国鉄道労働組合のストライキ解除。除夜の鐘行事。韓国歌謡でバラードが人気、ほか)。玄界灘(カレンダーが届きました、ほか)。韓国の素顔(日韓クリスマス・コンサート)。SINPO=22222。
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