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2012年01月12日12:29

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目撃者は今日も背負いながら 踊る祈るように

『ナチ娯楽映画の世界』 瀬川祐司著 読了。

ナチス、という政治運動はある意味20世紀の象徴であり
またその奇矯さから研究書や関連書籍は相変わらず
引きも切らずにリリースされ続けている。

そんな中、「ナチス時代の映画作品」を
クローズアップしようという試みが本書となる。

この題材は決して物珍しいものではない。
『ナチスの映像戦略』や『ヒトラーと映画』、
『ナチスと映画』などが出版されているのは
周知の通り。
ナチスにおいてプロパガンダに映像は
切っても切れない物であったのだから、
当然と云えば当然なのだが。

この本はそれらとは決定的に異なる処が
ユニークだ。

ナチス政権下のドイツは当時ハリウッドにも
対抗しうる程の本数の映画を製作しており、
ファシスト政権下、また泥沼の戦争状況でも
民衆は多くそれらの映画を楽しんだ、という
事実に著者は着目する。

そして、その製作された映画の題材にも。

それらの中から興味深い事実を発見する。

千数百本作られた映画の中で、
ナチスのプロパガンダが主題として
機能している作品は実はその10数%しか
占めず、後は極めて通俗的な娯楽映画
ばかりであった、という点だ。

我々は、つい安易に想像する。

映像プロパガンダがお家芸の
独裁政権下で、「真っ当な」映画など
作られる筈がない、と。

しかし、独裁政権下でも人々は
娯楽を欲し、それを享受し消費していた。

それはどのような環境下でも人は
娯楽を必要とし、それを求めるという
基本的な自由への欲求の発露、と考えられる。

無論、独裁政権下の事、様々な
規制や表現への弾圧はあった。

しかし、だからこそ、それぞれの映像製作者たちは
その規制を潜り、自らの表現を為そうとした。

この事が本書では豊富な例を用いて
綴られていく。

とても希望の持てる本でもあった訳だが。

最終章でそれは如何にも「甘い」読みである
事が著者により、指摘されてしまう。

ヒトラーとゲッベルスもまた、このような
「娯楽作品」を必要としていたのだ。

過酷な現実、様々な体制上の矛盾、
日々刻々と劣勢になっていく戦争など、
逃避として大衆へ与える餌としての娯楽、
という意味だ。

この事実は二重の意味の複雑性を
抱える。

1945年3月頃まで映画館に掛かり続けていた
明朗で快活な冒険映画、豪奢で贅沢な
レヴュウ映画、壮大で存分にマンパワーを
使った歴史映画、などは。

ドイツ上空を飛び回る爆撃機や、
燃料も食料も欠乏している家庭や、
それらの事実の上に剥れてしまった
鍍金でしかない第三帝国という幻想も。

ひと時忘れさせる為の逃避でしかなかったのなら。

大いなる皮肉というしかないだろう。

本書の希少性は実はここにある。

「ナチス以外」を描く事で「ナチス」を
摘出する、という事となるのだから。

本書が日本人によって書かれた、というのも
また興味深い。

東西に分かれていたドイツが統合し、
リベラルな西ドイツに対して閉鎖的な
東ドイツ、という印象であったが、
こと戦中戦前の映画に関しては
西ドイツ出身の知識人がその時代に
作られた作品は全て封印すべし、という
スタンスであるのに対して、東独出身者には
「映像は映像として判断するべき」という
姿勢を持っている人が多い、という。

東西ドイツそれぞれに云える事だが、
戦時の罪科はその殆どをナチスという
「絶対悪」に委ねてナチとドイツを
切り離そうとしてきた。

東独は西ドイツにそれを全て押し付け、
西ドイツは「ナチス否定」以外の言説は
全く許されない(それもまた当然なのだが)
風土が長らく続いてきた。

それが東西統合を経て、「過去」を
研究したり鑑賞したりする際に、
語る言葉に明白に影響を与えてきだしたのだ。

実に興味深い事実と云えるだろう。

それゆえ、これが他国籍人によってしか、
書かれえない本だった、と云えるのだ。

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