mixiユーザー(id:8306745)

2010年05月25日18:22

100 view

例えば

ある清廉なる聖職者がいたとする。

彼は、嘘を吐かず盗まず、殺さず敬虔だった。

文字通り、生涯に一点の曇りもない。

だが、彼はその清潔な生涯を今まさに閉じんとするある夜に。

一つの罪を犯した。

その罪がなんであるかは、この際問われない。

ただ、事実としてそれは罪だった。

彼はそれを認識し、死んだ。

さて。

それまで彼が積み重ねてきた清廉なる日々はその際、
意味を成さなくなるのだろうか?

イエス・キリスト・インマネルの言葉に従うと、そうだ。

だが、そういう「意味」を彼の人生に書き加えるのは、言葉だ。

死を消滅でない、という意味を持たせた場合に限って、だが。

言葉が彼の死を修飾し、断罪する。

誰かが彼の死に『罪』を塗りたくらねば、彼の墓は
恐らく白く、清い。

言葉だけが、世界を規定し、罪を語る。

そのような、一日を過ごした。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する