ある清廉なる聖職者がいたとする。
彼は、嘘を吐かず盗まず、殺さず敬虔だった。
文字通り、生涯に一点の曇りもない。
だが、彼はその清潔な生涯を今まさに閉じんとするある夜に。
一つの罪を犯した。
その罪がなんであるかは、この際問われない。
ただ、事実としてそれは罪だった。
彼はそれを認識し、死んだ。
さて。
それまで彼が積み重ねてきた清廉なる日々はその際、
意味を成さなくなるのだろうか?
イエス・キリスト・インマネルの言葉に従うと、そうだ。
だが、そういう「意味」を彼の人生に書き加えるのは、言葉だ。
死を消滅でない、という意味を持たせた場合に限って、だが。
言葉が彼の死を修飾し、断罪する。
誰かが彼の死に『罪』を塗りたくらねば、彼の墓は
恐らく白く、清い。
言葉だけが、世界を規定し、罪を語る。
そのような、一日を過ごした。
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