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2010年01月05日17:28

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著作権者なる存在が往々にして一番作品に対して無理解なのだ

最近、再びホームズ熱が再燃している。

幾日か前に日記にも読書履歴を記録した
『シャーロック・ホームズ 大人の楽しみ方』の
影響が大なのだ。

シャーロック・ホームズと云えば、世界初の諮問探偵を
描くポーが作った雛形を完成させた作品であり、
探偵+相棒兼書記係というスタイルも完成させた作品である。

これ以降の名探偵の登場するミステリで、この影響を
受けていない作品は存在しないと云っても過言ではない。

そして、その物語の面白さも然る事ながら、
『語りたい』『研究したい』と思わせる後続を
続々と(今も!)生み出し続けている、という
求心力の高いものでもある。

研究書、解説書の類であれば、恐らく三十冊は
読んでいるだろう。

そんな中、必ず言及されるのが
『ホームズとワトスンの親密さ』である。

その友情の度合いの濃密さ故に、
研究書でも『ホームズ女性説』や『ワトスン女性説』
はたまた、ワトスンが結婚後、奥方の死去により
再びベイカー街221Bで同居を始めるのだが、
実はそれはワトスンではなくアイリーン・アドラー
だとか、まぁ、あれやこれやとよく捻り出してくる。

これは、清く正しいシャーロキアンにとって、
『ホームズとワトスンの友情をどう解釈するか?』と
いう踏み絵となっているのだろう。

結婚して同居を解消されたホームズがいじいじと
「私に無断でとった勝手な行動」と述べていたり、
「私を置き去りにして結婚した」だの
「私はひとりきりだった」だのと捨てられた者の
恨み節のようなフレーズをどのように
『ノーマルな友情として解釈するか?』に
腐心するあまり、論旨が極端なモノになってしまった
好例であろう。

ヴィクトリア朝時代のイギリスは倫理規範が
大層厳しく、男性同士の恋愛などご法度だったし、
何より純朴なシャーロキアンのおじ様方に、
そのような解釈は到底受け入れられないのだろうが。

だがしかし。

それだけ無茶な説をひねり出さなければ
ならないくらい、この二人は『親密』なのだ。

大槻ケンヂも『最後の事件』を読んだ感想として
「ホモの旅日記」と書いていた。
ま、あの作品は色々と問題点があるので、そればかりでは
ないが、言いたい事はよく、解る。

そんな中、優秀な解釈を溢れんばかりの愛情と
フィルタで磨き上げているのが。

敢えて名は秘するが2ちゃんねる801板の
シャーロックホームズスレッドだ。

ここに集う人々の愛と研究心は素晴らしい。

新潮、ちくま、早川、光文社、岩波等を併読して
一番『萌える』訳をしている本を探したり、
当時のヴィクトリア朝の習俗を研究して、
どのようなライフスタイルを英国紳士が
送っていたのかを調べて、それをホームズ達に
適用したり。

大変勉強になる。

愛情って凄いなぁ。

過去スレが10程あるので、それを読み耽るのが
なかなか楽しいのだが。

あまりモニタの前で読んでいると疲れるし、
やはりここまで大部のデータとなると、
出来たら、本の形式で読みたい。

つう事で。

コピィ屋に勤めている利点を活かして
両面集約の上、週刊誌閉じをして出力。

これを仕事の資料のフリをして電車で
読むのが楽しいのだな。

・・・などと暢気に考えていたら、妙なニュースが
舞い込む。

『シャーロック・ホームズ』著作権者が激怒!
続編でホームズとワトスンの”ゲイ疑惑”に触れたら映画化の権利を剥奪
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100104-00000014-flix-movi

ふむ。

個人的には別に是である。

著作者が激怒したのならば話しは別だが、
著作権者にはその類のアレンジに対して
口を出す権利は無い、と個人的には考える。
とは言え、なんでもかんでも無法にアレンジという名の
改悪を施してよいか、と云えばそれはまた違うので
線引きは難しいと処ではあるのだが。

そもそもドイルの生前から既にシャーロック・ホームズ物は
舞台演劇にも採り上げられ、その際留意すべき点はないかと
舞台関係者がドイルに連絡をした処(ああ、なんて当たり前だが
素晴らしい配慮!)、「殺そうが結婚させようがご自由に」と
云う旨の返答があったそうだ。

ドイルとホームズの関係は微妙な愛憎関係にもあり
(語弊があるか?)、どこまで額面どおりに受け取るべきかも
意見は分かれる処であるが、作者ドイルからそのような
返答があった、という点は事実として留意されるべきであろう。

では、ホームズ物語の精神として、そのような『恋愛感情』が
背景にあったとした場合、それは否定されるべきか?

ここも難しい。

何故なら、恋愛感情と友情というのはそうは簡単に
区分けできる物ではないからだ。

時に幼児などの友情などは恋愛的要素を含む事は
往々にして見られる事象であるし、メカニズムとしては
同一である、と言い切る事だって(乱暴ではあるが)出来て
しまうのだ。

では、翻って我等がシャーロック・ホームズはどうか?

例えば『シャーロック・ホームズの事件簿』所収の
『白面の兵士』において、ワトスンの一人称ではなく、
ホームズ自身の一人称としてこの作品は語られる。

事あるごとにワトスンの事件簿を「センチメンタルだ」
だの「不要な部分で推理の過程がおざなりになっている」
だの批判していたホームズが「事件にかかわる事実だけを、
冷静に、簡潔に」記述する為に筆を取ったという作品だが、
冒頭でワトスンの結婚に触れ、「自分本位だ」だのと
散々愚痴った挙句、「私は一人ぼっちだった」という
男ホームズ49歳(推定)の述懐が堪らない。

明白にワトスンへの依存が見て取れるのだ。
ちなみに原文直訳だと以下。

Watson had at that time deserted me for a wife,
(ワトスンは当時妻の為に私を置き去りにしていたが)

「deserted」ときた!

辞書には『見捨てられた 見限られた』とある。
通常ならばleaveとか距離を取る単語は他にあるが、
調べてみると「兵士が持ち場を放棄する」時などに
使われる単語をホームズ(=ドイル)は使用していて、
ワトスンを非難する調子になっている。
a wifeとかメアリ・モースタンを表現する記述も
凄まじくそっけないし。

ふっつう〜に、平坦に読んでみても、
『ホームズは拗ねている』という事が見て取れる。

このような描写はそれこそ聖典のあちこちに散見され、
それが故に上述したような『ワトスン女性説』や
『ホームズ女性説』『ワトスン=アイリーン・アドラー説』など
珍説怪説が花盛りとなる訳だ。

つまり、ゲイなどというのを考えるのも厭な偏狭な
常識人も、そんな事考えたこともない一般人(敢えて
この表現を使う)も、ホームズとワトスンの親密さについて
某かの『腑に落ちない思い』を感じている、という事なのだ。

無論、正解はない。

テキストに書かれている事が総てであり、
それをどう読むかは読み手の裁量に任されている。

故に、「ホームズとワトスンの友情の物語に
一振りの恋愛的エッセンスを振りかけよう」
というアレンジであれば、私には文句はない。

少なくとも、『ゲイ的要素は排除』という
狭量な見方はしたくない。

作品の出来不出来は別問題だが。

エッセンスならば良いがやりすぎると下品に
なるしね。

その辺りはグラナダ版ホームズが非常に
美しく描いていて、ホームズ役のジェレミー・ブレッド
の発言でも「ホームズにとってワトスンは杖」という
物がある。聖典中でも『砥石』という表現をホームズは
使っていたが、より鮮明にワトスンに対する『依存』を
語っていて興味深い。

その抑えた友情表現がグラナダ版を美しい作品に
していたのだ。

著作権者は云う。

『わたしは同性愛者に敵意を持っているわけではありませんが、
シャーロック・ホームズの本の精神に忠実ではない人には敵意を抱きます』

シャーロック・ホームズの本の精神!!

自分がそれを理解していると思い込み、
その他の表現を一切認めないような輩が
著作権者なのだとしたら。

ヴィクトリア朝時代においても権威と差別に
痛烈な皮肉を投げ、騎士道精神も仁慈も
知っていたが友人はワトスンただ一人、という
孤独でありつつ終生の友を必要とした
シャーロック・ホームズという世界一高名な
架空の人物の、権利者としては失格であると
云わざるを得ない。

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