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2009年09月16日02:04

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個人的には是、だが

河村氏「南京30万人死亡」否定
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=961735&media_id=2

ふむ。

とりあえず、面白い事が一点、よろしくない処が
一点というニュース。

まず、よろしくない点。

これは名古屋市市長の発言。
南京市と名古屋市は姉妹都市で、
馬鹿な市議会員が無用な質問を投げたのが
きっかけらしい。

これは、訪中を熱望している鳩にいいエサに
なるのではないか?

謝罪したくてたまらんのだろ、鳩は。

まさか、訪中が近いタイミングを狙った
逆プロパガンダなのではないか、などとも
邪推出来てしまうあたり、恐ろしい事だ。

そして、面白い点。

これにまつわる日記を多数拝見させて頂いた。
そして、興味深かったのは、虐殺否定派は
「20万人しか当時いなかったのだから、30万人虐殺は不可能」とか、
「既に捏造が発覚しているので、当然の意見」と云った『主流派』
としての意見を述べているものが多かった。

方や肯定派(このカテゴライズは色々を難色を示す人も多いだろうが
便宜上こうしておく)はと云えば。
資料を持ってくる訳だ。

多くのその手の日記で参考として示されていたURLが以下。

『南京事件FAQ』
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/FrontPage#content_14

論旨は雑だが、とても面白かった。

何故か。

以前の『南京大虐殺』が歴史的事実だとされていた時代に
於いて、その反証を挙げるには資料批判が最も有効だった。

便衣兵、南京20万人居住説、武器弾薬の損耗をそのような
処で招くような愚策は行う筈がない、日本刀は100人も斬れない、
虐殺写真の捏造、流用etc,etc。

今。

その反証は主流となり、反証はまた資料を持って為されている訳だ。

そして、主流派であるが故に、逆に否定派は資料批判を
行わない。だから、肯定派に対して有効な反論を持たないのだ。

面白い逆転が起こっている、と思うべきだろう。

そうやって、理論を積み重ねて行く事は論理構築の
修練として極めて有効だろう。

じゃんじゃんやって欲しいものだ。

さて。

ここで終わってしまっては高見の見物客の放談、となってしまう。

それでは面白くない。

上記URLを一通り読んでみたツッコミ所を挙げておく。

長くなるが、引用する。

以下。

『陥落時の南京の人口は20万人ではなかった

まず「南京」の範囲を確認しておく。
1.南京安全区……南京城内の一区画
2.南京城内……城壁に囲まれた範囲
3.南京市……2に城外に隣接する市街地および近隣の農村部(郷区)を
加えた地域
4.南京特別市(南京行政区)……3を含む江寧県など六県から
成る広大な行政区
否定論者が「20万人」としているのは3の南京市の人口
(正確には1の人口を20万として周辺地域は無人としている)
であるが、果たしてそれは妥当な推測なのだろうか。

南京市の人口は、1937年3月末の時点では101万9667人だった
(首都警察庁調べ、笠原十九司『南京事件』p219)。
このうち城内とその周辺が約85万、郷区は約15万である。
これが12月の南京戦までにどれほど減少したかが問題となる。

8月15日、南京に対して日本軍機による渡洋爆撃が実行される。
これを皮切りに爆撃は数か月に渡り続くこととなった。
南京市街は大きな被害を受け、安全のために市を脱出する者も出てきた。
ルイス・S・C・スマイス『南京地区における戦争被害』(1938年)

1年前,南京市の人口はちょうど100万をこしたところであった。
この数字は8月・9月にかけて急減し,11月初旬にまた50万近くに戻った。

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』p251より)

これはスマイス報告の第1表に付された記述である
(スマイスは報告で陥落当時の人口を20万〜25万としているが、
郷区の人口を含めているかは明らかではない)。

日本軍が南京に侵攻しつつあった11月の中旬、
国民政府は南京から重慶への遷都を決定する。
国民政府は遷都に600台の自動車と220隻の船舶を動員し、
結果として一般市民の輸送力は低下した。
船舶が少なくなり乗船切符は高騰した。
12月初旬には南京防衛軍司令官の唐生智は下関から浦口までの
連絡船業務を停止し、城門を閉鎖した。そのため11月下旬から
脱出できた市民、農民は多くなかった。
また城外の住民は農民主体であり、
城内の住民と比べると遠くに疎開する資力がある者は少なかった。

中国抗日戦争史学会編『南京大屠殺』には以下のような資料があるという。
11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が
国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡

「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は
約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される
難民のための食糧送付が必要である」

(笠原十九司『南京事件』p220より。漢数字はアラビア数字に置換)

笠原は、脱出の意思と能力のある者は11月下旬までには
脱出を済ませており、また日本軍に追われ江南地域からの
避難民が移動してきたとして、南京戦が開始された時点で
市内にいた民間人は40万〜50万であったと推定している。

では有名な「20万」という数字の根拠はなんなのだろう。
「20万」が登場する文献はラーベの日記や国際委員会の文書などである。
・〔11月25日〕まだ20万人をこす非戦闘員がいると言うけれども。
・〔11月28日〕警察庁長王固盤は、南京には中国人が
まだ20万人住んでいるとくりかえした。

(ジョン・ラーベ『南京の真実』文庫版p70,p77より。
漢数字はアラビア数字に置換)

各種資料には南京戦が近づくにつれて人口が減少する
様子が記されている。推定人口は最終的に20万という
数字に落ち着くのだが、それを裏づける人口調査が
行なわれた記録は存在しない。そもそも国民政府が大急ぎで
脱出を図っていた慌しい時期に正確な人口を数える余裕など
あったはずがない。20万というのは陥落の何週間も前から
予想されていた大雑把な数字に過ぎず、たまたまそれが
一人歩きしてしまっただけなのである。

さらに、南京の外国人たちは陥落時までに市民のほとんどが
安全区に避難したと考えていた。彼らの資料にある「20万」
は安全区の推定人口であるが、それを南京の人口と見なしていたのである。
実際は安全区の外にも市民は残っており、
陥落後に安全区の人口が増加したことで外国人は認識を修正している。

外部と隔絶された段階、1月までに登記された城内の
人口は16万程度であるが、これは子供や一部の老人が含まれていないので、
実数は20数万だったと考えられる(外国人は25万と考えていた)。
陥落前には確実にそれ以上はいたわけである。
また、陥落時に城外や郷区に留まっていた難民も存在したし、
移動中の難民もいた。
陥落時点の南京市の人口を正確に測定することは
今となっては不可能だが、少なくとも20万ということは
ありえないのである。』

引用以上。

さて。

これの示す所は何だろうか?

条件1.南京攻略戦前は人口は100万人を超えていた。
条件2.開戦後は江南地域からの避難民を含めて50万人はいた。
条件3.南京戦が始まるにつれて人口は減少した。
補足.最終的には20万人程度に減少するであろうと推測された。
補足2.日本軍撤退後の人口調査では23〜5万人が居住していたとされる。

以上である。

つまり、この資料は20万人という人口の推定が
誤りの『可能性がある』という事しか示唆していない。

当然だが、問題はそこではないのだ。

では、何人殺されたか、だ。

「人数の問題ではない」とかいうバカサヨクがいるが、
これは問題外。犯罪として告発しようというのなら、量刑に
罪状は大いに関連する。

そして、南京事件(大虐殺)は日本軍の南京占領『後』に
行われる。

20万人、とは思えないのならば南京には
当時何人の民間人がいたか?

無論、分かる筈はない。

当時戦火のごたごたで人別の確定など出来る状況では
なかったろうから。

故に「南京の人口20万人は嘘」と云ってしまった場合。

それもまた、嘘になるのだ。

いわゆる『悪魔の証明』だ。

そうでない事を証明してみせよ、としか
実の所このURLのリンク先はほとんど云っていない。

当然の事だが、民間人の死傷者がゼロであった、などという
妄言は吐かない。
また、否定派だからと言ってそのような事を云う
愚か者もいない(筈だ)。

当時はなにせ戦時下だったのだ。

平時には考えられないような混乱があったろう。

だが、それこそ『個人の』犯罪なのだ。

日本軍(この場合は関東軍)ましてや日本人が無用に
負うべき負債では、ない。

リンク先を一読して欲しい。

「(虐殺が)ない事は証明出来ない」の一点張りであると、私は
判断した。

反証したいネタは山ほどあるが、それはまた別の機会に。

いくらスペースがあっても足りん(笑)。

もっと、知的レヴェルを上げる為の
有効な資料が現れて欲しいものだ。

否定派肯定派ともに、ね。
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