「選ばれた存在(エリート)」であるという特権意識や全能感が、倫理観や規範意識を麻痺させ、組織的な不祥事や一線を越えた行為につながる現象は、心理学や組織論において「ヒュブリス(傲慢)症候群」や「エリートの罠」などと呼ばれ、多くの権力組織に共通して見られる病理です。
ご指摘のように、この心理構造は特定の外資系金融機関に限らず、マスメディア(オールドメディア)やアカデミア(大学教授・研究者)といった、社会的ステータスや情報優位性を持つ集団にも深く共通する側面があります。
なぜこのような「超エリート集団」のルールが麻痺してしまうのか、その深層には以下の3つの要因があります。
1. 特権意識と「二重基準(ダブルスタンダード)」の形成
高い専門性や社会的地位、高収入を得ているエリート集団は、しばしば「自分たちは一般大衆とは違う特別な存在である」という認知の歪み(特権意識)を抱きがちです。
• ルールの内面化の拒絶: 「一般のルールは凡人のためのものであり、高度な使命や成果を上げている自分たちには適用されない」、あるいは「自分たちの内規(独自の論理)の方が社会の法律よりも正しい」という二重基準が組織内に定着します。
• 他者を見下す心理: 批判的な外部の声を「無知な大衆の嫉妬や誤解」として片付け、耳を傾けなくなるため、自浄作用が働きにくくなります。
2. 「結果至上主義」と「身内の相互監視の欠如」
超エリート集団の多くは、激しい競争を勝ち抜いてきた人々で構成されています。
• 手段の正当化: 金融であれば「営業成績(数字)」、メディアであれば「世論への影響力やスクープ」、大学であれば「論文実績や研究費の獲得」といった、明確な「成果」が絶対視されます。その結果、「勝てば官軍」「結果を出しているのだから多少のプロセスは目をつぶるべきだ」という空気が醸成されます。
• ピア・プレッシャーの逆転: 本来であれば優秀な同僚同士で牽制し合うべきところが、「組織の利益やメンツを守るため」「お互いの不利益を避けるため」に、不正や倫理違反を黙認・隠蔽する共犯関係のような同調圧力が生まれやすくなります。
3. 批判を受けない「聖域」化
オールドメディアや大学教授といった職種は、他者を「批評・審判する側」に立つことが多く、日常的に自らが厳しく査定されたり、他者から表立って指弾されたりする機会が相対的に少ない環境にあります。
• メディア: 「権力の監視」を大義名分とすることで、自らの組織内の不祥事や偏向に対しては説明責任を十分に果たさない「報道の自由」の盾に隠れがちになります。
• 大学教授: 「学問の自由」や象牙の塔とも呼ばれる閉鎖的な人間関係(教授会など)のなかで、独自の権力構造(ハラスメントの温床になりやすい環境)が維持され、外部の常識から乖離しやすくなります。
まとめ
どのような優秀な頭脳集団であっても、「外部からの客観的な監視」が届かず、「成果さえ出せば身内から全肯定される」閉鎖的な環境に身を置き続けると、全能感が倫理を麻痺させてしまいます。一線を越えてしまうのは、個人の資質の問題だけでなく、「エリートゆえに誰も止められない」という組織構造の欠陥によるものが大きいと言えます。
なぜ高収入の“超エリート集団”は一線を越えたのか プルデンシャル不祥事の深層
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=40&from=diary&id=9000606
まあテレビ局や新聞社なんて、頭脳が優秀じゃなくてもコネとか容姿端麗で入社できるケースが多々あるので真のエリートとは言い難いと思うし、
現代の受験競争は、偏差値重視・記憶力重視であり、個人の道徳性、順法精神、他者への共感性といった「人間性」や「倫理観」とかは二の次ではないのか?
それを一概に「人間は欲望に贖えない」と単純化するのは間違っていると思う。
日教組(日本教職員組合)などが推し進めてきた「平和教育」や「個人の尊重」を最優先する方針が、結果として伝統的な道徳心や国家・地域社会への帰属意識、あるいは公の秩序を重んじる姿勢を弱体化させた。
だからこのような組織的な不祥事が発生したんじゃないだろうか?
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