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2022年12月16日19:29

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Wカップ企画(10)モロッコの歴史 カルタゴのハンニバル、20世紀から21世紀(フランスの植民地支配下から独立、民主化へ) 準決勝 第2試合 モロッコ 対 フランス戦レポート

卓球の石川佳純が、ファッション誌の表紙を飾った。モデルさんに負けていない、と読者から高評価を得ている。
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=7227668

   Wカップ企画(9)モロッコの歴史 準決勝 第2試合 フランス 対 モロッコ戦レポート

 今回モロッコの歴史を紹介すると共に、同国のWカップ準決勝の試合をレポートした。全4章から成る


 参考文献
世界史の窓 モロッコの歴史
ポエニ戦争 ウィキペディア


        第1章 20世紀、フランスの支配下に入る。
 モロッコがフランスの影響を受け始めたのは、1830年代、隣国アルジェリアが、フランスの勢力圏に入っていた。モロッコは、フランスとドイツの板ばさみにあった。1904年に、英仏協定により、フランスは英国のエジプトへの権益を認める代わりに、モロッコの保護国化の承認を取り付けたことに始まる。意義を唱えたのは、ドイツ帝国である。1905年の第一次、1911年の第二次を含め、2度モロッコ事件が起こった。第一次では、ドイツが、モロッコのタンジールに上陸し、国土防衛を約束したことにより、英仏を刺激した事が原因である。翌1906年にアルヘラシス会議が開催され、モロッコの主権が尊重された。警察権はイギリスとフランスが握ることになり、ドイツは排除された形になった。第二次の発端は、ドイツがアガディール港に軍艦を派遣したことにある。フランスが、イギリスと協力し、ドイツを追放する目的で、モロッコに上陸する。1912年にアラウィー朝スルタンとの間でフェズ条約が結ばれた。モロッコは、フランスの保護国となり、国土は大半を占める「フランス領モロッコ」と、北モロッコの一部(リーフ地方)と西サハラの「スペイン領モロッコ」に分割された。

写真=リーフ共和国の地図 note 2021年10月17日
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 1912年のフランスの保護国化に対して、直ちにモロッコの民衆は蜂起を起こす。フランスはリオテを総督に任命し、反対者を取り締まった。1920年に転機が訪れる。北モロッコのリーフ地方にて、アブデル=クリムを指導者とする部隊が結成され、宗主国のスペインに反旗をひるがえす。スペインからの要請を受けて、フランス軍も鎮圧部隊を派遣する。リーフ共和国の後援には、1922年12月30日に国際社会に認められたソヴィエト社会主義連邦共和国がついていた。1925年に、フランスとスペインの同盟国は、リーフ共和国の独立運動を阻止した。
 1936年にスペイン内戦が勃発すると、ファシスト政権ファヘラン党の拠点がモロッコに置かれていた。相対する人民解放軍は、共産党を含め、ブルジョワ政党や社会主義者も加わった。1939年に3年にわたったスペイン内戦は、ファヘラン党が勝利し、フランコ独裁政権へと繋がる。

 関連日記 スペインの歴史(3)、リーフ共和国を記載 東京 五輪 男子サッカー決勝 ブラジル 対 スペイン戦レポート https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980026031&owner_id=32437106

 同年ナチス・ドイツとソヴィエトにより、独ソ不可侵条約の協定に基づき、ポーランド侵攻から第2次世界大戦が勃発した。1940年7月、フランス国内で親独ヴィシー政権の成立に伴い、モロッコもドイツの配下になった。1941年11月にアメリカ・イギリスなど連合軍は、北アフリカ作戦(トーチ作戦)を開始する。モロッコとアルジェリアから、ドイツ軍の駆逐を狙う。モロッコのカサブランカに上陸したアメリカ軍は、フランス・ヴィシー政府軍と交戦した。圧倒的な兵力の差からフランス軍はまもなく停戦に応じる。モロッコはアメリカ軍によって解放された。当時の緊迫した国際情勢をテーマに、1942年に映画「カサブランカ」が製作された。80年の時を経ても、メディアで取り上げられる不朽の名作である。
 
 第2次世界大戦時、モロッコの独立への機運が高まる。戦時中の1943年に民族解放組織「イスティクラル(独立の意味)」を中心とした独立運動が展開される。都市部の労働運動や山岳部のゲリラ部隊(フェラーガ)の武装闘争とも直結する。フランス総督は、独立運動運動を抑えるべく、手を打った。1953年に、国民の象徴となりえるスルタンのムハンマド5世をマダガスカルに追放した。モロッコに対する統制が利かず、アジア各国でもフランスへの反乱が起こる。1954年にインドシナでベトナムとの間でディエンビエンフーの戦い(1954年3月13日から5月7日)を繰り広げた。ほぼ2ヶ月にわたる戦いで、ベトナム民主共和国に敗れたフランス軍は撤退した。モロッコの勢力圏離脱を恐れたマンデス=フランス首相は、自治を約束した。マダガスカルに追放していたムハンマド5世は、1955年に復位する、1956年にアラウィー朝のモロッコ王国として独立を回復した。同年に独立したチュニジアと共に、1960年のアフリカ諸国の独立(アフリカの年)の先駆的な役割を果たした。<佐藤次高『西アジア史�汽▲薀屐�2002 世界各国史8 山川出版社 p.493 など参照>

 独立後、争点となったのは西サハラの帰属権である。1970年代から西サハラの併合運動が活発化し、領有権を主張するスペインのフランコ独裁政権に圧力をかけた。1975年にフランコが死去すると、状況は大きく変わった。スペインが、モロッコとモーリタニアに割譲を約束して、兵を引き上げたのである。あくまでもモロッコは、全土領有を主張する。モーリタニアとの間で、利害関係で対立を深めた。モロッコは「緑の行進」と称して非武装越境大行進を行う。隣接するモーリタニアも西サハラへ北上し、モロッコと利権を巡って争った。多くの西サハラ住民は、戦火から逃れるように、受け入れを表明したアルジェリアへと避難した。翌1976年、独立を目指す勢力はポリサリオ戦線を結成し、亡命政権の樹立を宣言した。西サハラの領有権を主張するモロッコとモーリタニアに対するゲリラ闘争を開始した。モーリタニアは、1979年に領有権を放棄して、撤退する。モロッコは、ポリサリオ戦線と武力闘争の末に、実効支配した。

写真=西サハラ地域 掲載元 GNV 2017年2月16日付 https://globalnewsview.org/archives/4582
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2022年現在でも西サハラ地域の8割に軍隊を置き、リン鉱石などの資源を発掘している。ポリサリオ戦線を支持しているアルジェリアとは隣国同士で歩み寄れなかった。1984年に、ポリサリオ戦線を正規軍と認めるアフリカ統一機構(OAU)から創設時のメンバーでありながら脱退を表明した。西サハラの領土問題は、1990年代に国連が仲介することになった。モロッコは、国連の住民投票による帰属権決定に応じる。投票資格を巡って、国連の提案を拒否したことにより、実施されていない。ポリサリオ戦線に対して、1991年に停戦に合意し、緩衝地帯を設けて一端収束した。
 コロナ禍で閉塞感が漂う中、2020年10月に休戦協定が破られた。モロッコ軍が西サハラ南部の緩衝地帯で軍事行動を行い、ポリサリオ戦線の支持者を見つけ出し、攻撃を加えたのである。同時期には、中東のアゼルバイジャン領でありながら、アルメニア人が実効支配するナゴルノ・カラバフ紛争が起こっていた。西サハラの方では、国連とアルジェリア側が仲裁に入り、軍事衝突を避けることができた。西サハラの領有権争いは、1970年代から50年間モロッコとポリサリオ戦線との間で続いている。
<朝日新聞 2020/11/17>

      第2章 紀元前のモロッコ カルタゴの歴史

さて太古に遡ると、地中海に面した同国は、ヨーロッパとアフリカを結ぶ交通の要所だった。最初に現代のモロッコで文明を築いたのはベルベル人といわれている。起源についてはっきり分からないものの、マグリブ(北アフリカでエジプト以西をさす)出身であることは明らかになっている。紀元前13世紀ごろには、フェニキア人に勢力がとってかわられつつあった。やがてゾウを引き連れてアルプス越えに挑んだ英雄ハンニバルを生み出したカルタゴが支配した。ベルベル人は、住処を追われ、内陸部に拠点を移し、マウレタニア王国を建国した。

 地中海沿岸を手にしたカルタゴは、対岸のヨーロッパ大陸随一のローマ帝国と、領土を巡って争うようになる。

 以下 3回にわたった戦争の経過

 第1回  前264年〜前241年、シチリア島が主な戦場となり、ローマが勝利し、シチリアを占領し最初の属州とした。サルデーニャとコルシカからも兵を撤退したカルタゴはイベリア半島を支配する。

 第2回  前218年〜前201年 カルタゴのハンニバルが、象を引き連れて、アルプス越えを行う。イタリア半島のローマへと進軍し、前216年のカンネーの戦いでは序盤は圧倒的に有利に立った。ローマの将軍は、兵力の数から持久戦に持ち込む狙いだったものの、物資の補給がままならず、消耗仕切っていた。兵士の不満を解消するべく、短期戦へと作戦を変えた。カルタゴ軍の主力は1万の騎兵と2万のケルト人、その他スペイン人の重装歩兵5千、リビア人やフェニキア人の重装歩兵7千。迎え撃つローマ軍は8万の大軍であり、圧倒的に有利だった。カンネー(カンナエ)はローマから4百キロ近く離れた南イタリア東海岸の原野。カルタゴの将軍ハンニバルはテーベのエパミノンダスやアレクサンドロス大王のアルベラの戦いの斜線陣を採用、ローマ軍主力を盆地に誘い込み、両側から騎兵で挟撃する方法でローマ軍を包囲することに成功、大勝した。ローマ軍の死者は5万、それに対してハンニバル軍の戦死者は5千人。一度に5万以上の死者を出した戦闘は、第一次世界大戦まで無かったという。<長谷川博隆『ハンニバル』1973 講談社学術文庫版 p.104-109 などによる>


ローマは、知将スピキオによって、反撃の機会をうかがう。紀元前202年、ハンニバルが留守にしている間、奇襲攻撃をかける。カルタゴの近郊ザマの戦いでハンニバル軍を破り、制圧する。時を同じくして、マケドニア戦争でギリシャまで手に入れた。

写真 掲載元 世界の歴史まっぷ ポエニ戦争より
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 ザマの敗戦によってカルタゴはスキピオに講和を申し込んだ。スキピオは、厳しい和平案を突きつけた。
�� カルタゴがアフリカ以外の領土をすべて放棄すること、
�� ヌミディアをマッシニッサ(ローマ軍に協力した)に譲渡すること、
�� 軍艦は10隻まで削減すること、
�� 賠償金は1万タレント(50年賦)とすること、
�� カルタゴ貴族の若者100人を人質としてローマに送ること、
�� カルタゴはアフリカ以外の所で武力介入を禁止する。またアフリカでの戦争でもローマの許可が必要とすること、


 スキピオの講和条件を、カルタゴの元老院(ローマに倣って元老院を置いていた)は受け入れるか、否かを巡り、紛糾した。議場をまとめたのは、ハンニバルだった。「この和平は受けるより他はない」と反対者を説得して、ローマとの講和を結んだ。<以上、長谷川博隆『ハンニバル』1975 講談社学術文庫 などによって構成>
 
ハンニバルは、ひとまず、ローマと戦争を終結させ、国力の回復を願った。賠償金を完済し、軍備を制限されながら、ハンニバルの下、兵力を調えていた。ローマの元老院側は、カルタゴのハンニバルを引きずり降ろすべく、計略を練っていた。

カルタゴ側では、軍事力の低下は避けられず、第2次ポエニ戦争で同盟を結んだヌミディア国からしばし略奪の被害にあい、経済的にも大きな打撃を受けていた。カルタゴ側は、ローマ元老院に対して、鎮圧部隊の派遣を要請した。カルタゴの国力低下を願う意向から、ローマ元老院は無視をする。現にヌミディアのマシニッサ王は、第二次ポエニ戦争の途中でローマに鞍替えし、同盟を結んでいたのである。ローマからの援軍が期待できない以上、自力で戦う以外選択はなかった。紀元前151年に、カルタゴの将軍ハスドルバルは、再軍備を整え、ヌミディアと戦った。オロスコパ(現チュニジア北西部オロスコパ付近)の戦いで、推定カルタゴ軍2万5000にヌミディアの反乱部隊6100人が加わり、3万1千になる。対してヌミディアの兵の数は明らかになっていない。ヌミディアのマシニッサは、土地勘を生かして、水源が乏しい荒れた土地へと、敵軍を誘導した。兵力の多さを生かし、カルタゴ軍を包囲する。多数のカルタゴ軍が四面楚歌の中での戦いで、命を落とした。大敗を喫したカルタゴ側は、将軍ハスドルバルを含め、士官は逃げ帰ることができた。カルタゴは、ローマからの討伐軍との戦いを危惧して、ハスドルバルに対して、戦争の責任を問い、一時は死刑宣告を下す。カルタゴに対して、第二次ポエニ戦争の終結に伴う講和条件に違反をしたことを口実に、軍を派遣する。紀元前149年から紀元前146年にかけて、3年にわたる第三次ポエニ戦争が始まった。紀元前146年の春に、止めをさすべく、カルタゴの都市を包囲し、5万人を奴隷として売り飛ばした。カルタゴは、完全に滅亡したのである。旧カルタゴの領土は、アフリカ属州として再編され、首都機能をウティカに置いた。1世紀後にユリウス・カエサルとオクタウィアヌスによって、破壊された都市は再建されたのである。

 一方モロッコ内陸部に位置したマウレタニア王国(北モロッコ、西アルジェリア、ジブラルタル)は、ローマ帝国に忠誠を誓い、属国として生き残った。カルタゴ滅亡後、ヌミディアのユバ二世が属王となり、紀元後23年まで治めた。ユバ二世の死後、ローマ帝国で教育を受けていた息子のプトレマイオスが後を継いだ。彼は、ローマに忠実ではなかったのか、第3代皇帝カリグラによって殺害された。第4代皇帝クラウディウスにより、西暦44年勅令でマウレタニアを勅任総督によるローマ属州とした。属州の一部とされながら、建国したベルベル人のマウリ王統を残した。実際現地住民は、マウリ王統に忠誠を誓っていた。秩序の維持に一役買っていたのである。

 古代ローマ帝国は、西暦395年にテオドシウス帝の時代に、息子たちによって東西に分割された。モロッコを含む西ローマ帝国は、西暦476年に滅亡する。6世紀に、一時はイタリア半島からイベリア半島まで勢力を伸ばしたユスティリアヌス大帝によって、征服され、東ローマ帝国の一部になる。7世紀にアラビア半島で成立したイスラム王朝が、成立すると、エジプト方面からモロッコへとウマイヤ朝が侵攻した。8世紀、ベルベル人と東ローマの連合軍は、ウマイヤ朝とのカルタゴの戦いで敗れる。モロッコは、アラブ人が中心の世界へと変わった。

詳細 2021年7月7日付 イタリア統一160年(1)西ローマ帝国の滅亡について 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979734137&owner_id=32437106

 ベルベル人は、内陸部でひっそりと生き残り、アラブ人との間に溶け込んだ。現在モーリタニアの人口の70%を占めるモール人は、アラブとベルベルの混血である。ラテン語でマウリ、英語でムーアという。

勇猛果敢にローマ帝国と戦ったハンニバル将軍を生み出したのは、モロッコ北部を含むカルタゴである。現在も英雄として残り続けている。

 写真=アルプスを越えるハンニバル 風刺画 掲載元 世界の歴史まっぷ ハンニバルより 
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      第3章  21世紀の歩み

 
 北アフリカの一国モロッコは、独立後、立憲君主制として歩んでいる。1961年に、56年の独立後に国王だった父ムハンマド5世の後を継ぎ、ハッサン2世が即位した。翌1962年に、首相を兼任したハッサン2世は、憲法改正により、君主の権限を強くする。領土的野心も抱き、他国との武力闘争にも介入した。アフリカ統一機構(OAU)が発足した1963年10月に、アルジェリアと国境線をめぐり、戦争が起こった。一連の砂戦争は、ハイレ・セラシエ一世の下で、停戦が成立し、国境線は現状維持で決着がつく。内政面では、反対する政党を弾圧し、1965年6月には憲法を停止する。軍部と警察による、反政府勢力を取り締まった。1967年6月のイスラエルとの6日間戦争、1973年の第四次中東戦争(10月6日から24日)にはシリアに援軍を送った。経済面では、西欧からの外資を受け入れ、工業化を促進させた。国民との間では、西サハラの実効支配により、強い国家指導者として印象付けた。1982年にOAUに加盟した西サハラを独立国として否定し、モロッコの一部であると主張を押し通した。アフリカ各国との外交では、大きく停滞する。1984年にはOAUを脱退し、孤立を深めた。1989年本部をモロッコの首都ラバトに置く、北アフリカ各国の経済協力機構「アラブ・マグレブ連合」を立ち上げた。1989年2月17日に、モロッコのマラケシュにて調印される。1992年9月に憲法改正により、民主化が進んだ。1999年7月23日に、丁度70歳20日で病死した。リベラルな息子ムハンマど6世へと受け継がれている。

 ムハンマド6世の時代は、内閣へと権力が移行しつつあるものの、首相の任命権、議会の解散権、軍隊の最高指揮官として権勢を奮う。2011年にアラブの春により、憲法改正に踏み切った。イスラーム=原理主義に関心を示していたアブデルイラーフ・ベン・キーラーン(1954年4月8日生まれ)内閣が発足する。彼は、民主主義とイスラム主義の融合を目指し、人々の自由を奪うことを否定していた。2011年11月29日に国王ムハンマド6世から首相に指名され、2012年1月3日に内閣が発足する。5年後には、内閣が交代し、2017年3月17日から2021年10月7日まで第16代首相親フランス派のサアデディン・オスマニ氏が付いた。2021年10月以降、アジズ・アハヌッシュ氏に交代している。

 2016年7月17日にムハンマド6世の意向により、アフリカ連合への復帰に向けて手続きを踏んだ。2017年1月31日に、エチオピアの首都アディスアベバで開かれた首脳会議にて、正式に再加入が認められた。隣国アルジェリアとは、西サハラ問題により、関係が悪化し、2021年8月24日に断行している。国内ではテロ組織を抱え、治安面に不安があるものの、農業や工業面を含め資源に恵まれ、フェズやマラケシュなど古い町並みは観光客をひきつけていた。地中海をはさみ対岸のヨーロッパの国々と貿易協定を結びながら、経済発展を遂げている。

  第4章 試合レポート 

 日本時間12月15日(木)午前4時から準決勝 第2試合 フランス 対 モロッコ戦が行われる。開催地のカタールは、モロッコと同じアラブ圏である。トーナメントに入って以降、モロッコはホームゲームのように大歓声を浴びながら試合をした。

 写真 掲載元 スポーツナビ テキストよりhttps://soccer.yahoo.co.jp/wcup/category/2022/game/2022121401/text?gk=18

右エンドにモロッコ、左エンドにフランスが入り、モロッコボールでキックオフした。立ち上がり4分、フランスは、センターサークルの右横でSBバランが、引いてボールを要求したグリーズマンにスルーパスを送った。グリーズマンは、相手のダリと駆け引きし、一端最終ラインの手前まで戻り、体の向きを変えて、ゴール前に飛び出していく。エリアの若干手前でボールを受けて、左足のアウトでエムバペにパスを出す。エムバペのシュートは、スライディングした相手にブロックされる。エムバペは、こぼれたボールを拾い、もう一度左足でシュートを打った。急いで戻ったダリの足に当たって、エリアの反対側にこぼれる。フリーになった左SBのエルナンデスが、腕を大きく広げたGKブヌを前にしながら、左足でボールを叩きつけるようにシュートを打った。体を投げ出したブヌの右腕の下を抜けて、ネットを揺らした。1対0.浅く守るモロッコDFを崩したフランスが先制点を奪った。
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得点をお膳立てしたのはグリーズマンである。モロッコの5バックからスペースを見つけるべく、ダリを誘うかのように、下がった。パスの出し手のバランは、オフサイドラインを意識しながら、タイミングを計って、スルーパスを送った。体を反転したグリーズマンは狙い通り飛び出して、ボールを受け取り、先取点に繋がるクロスを出した。

 早くも先制点を失ったモロッコは、右アウトサイドのハキミが、ハーフウェー・ラインを越えたところまで上がった。体面にいる先制点のエルナンデスが体を張ってブロックした。続くモロッコは9分、センターハーフのウナヒがボールを持って、ゴールから約25m付近で右足を振りぬいた。ネットの右隅に向ったボールは、横とびしたGKロリスが左手一本で阻んだ。ゲームは、動きがないまま、終盤を迎える。43分、モロッコは右サイドからのコーナーキックのキッカーを努めるジェシュが、ゴール前に直接ボールを入れる。ニアサイドでフランスのワントップをつとめるジルーが頭に当ててクリアする。大きく浮き上がったボールは、エリア手前中央やや左に落ちていく。戻りながらSBエルヤシダがオーバーヘッドキックでゴールを狙った。しっかりと左足の甲にミートし、回転しながら、落ちていく。キッカーからみて瞬時に左に飛んだGKロリスの右指をボールがかすめると、ポストに当たって跳ね返った。ボールは、落差があったものの、辛うじてロリスは指に触れることができた。
写真左=エルヤシダのオーバーヘッド
写真右=ロリスのセーブシーン (Photo by Eurasia Sport Images/Getty Images)
フォトフォト

 エンドが代わり、後半一点リードのフランスは、2分中盤でのパス回しからチャンスを掴む。右サイドバックのクンデが出したボールを、センターサークルの右横でボランチのチュアメニが受ける。体の向きを変えながら、右足でグリーズマンにダイレクトパスを送った。ボールはハーフウェー・ラインをこえていく。グリーズマンは、右足でボールタッチし、左足でハキミと競争するエムバペにスルーパスを出す。ハキミは体をくっつけてファウルをせずに対応する。GKブヌが、体を倒してボールを抑え込んだ。ゴール前で競り合ったエムバペとハキミは、共にパリ・サンジェルマンのチームメイトである。両者のマッチアップは試合前から注目されていた。1点を追うモロッコは5分、右アウトサイドのハキミがエリア内でボールを受けた。対面にいるコナテが、コースに入り、足を伸ばして、ボールを外に出した。ハーフウェー・ラインより大きく後ろに下がったエムバペが、タッチライン際でボールを拾い、急いでドリブルで駆け上がる。およそ50m以上ドリブルした末、エリアに入る手前で、勢い余ってスライディングしたアムラバトにボールをとられた弾みで、ピッチに倒れた。深いタックルを受けたエムバペは、ピッチに座り込んだ。彼は、ファウルの誘いに失敗したのである。フランスは引いて守りながら、一発を狙う。33分、ミドルレンジでエムバペがターンしながら、エリアの左に入ったトュラム(交代出場)にパスする。トュラムは、右斜め横のエムバペにボールを預けた。エムバペは、ボールを両足で置き換えながら、アムラバトを交わし、右足のアウトでハキミとエザルズリ(交代出場)の間にボールを通した。エザルズリの踵に当たって微妙にコースが変わったボールは、ショートバウンドする。GKブヌは、慌ててファーサイドへ向う。代わって入ったコロムアニは、右足のインサイドで落ち着いてボールに合わせた。GKブヌの両手はボールに届かず、右ネットを揺らした。2対0.アシストしたエムバペは、足元が柔らかく、狭いスペースでボールをコントロールしながら、コロムアニに落ち着いてパスを送った。モロッコは、エムバペにひきつけられ、交代で入ったコロムアニを完全にフリーにしていた。
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ゲームは、2対0でフランスが、モロッコに勝利した。互いに90分の枠内シュートは2本ずつ、両国間のボール支配率はモロッコの58%に対して、フランスは42%だった。モロッコは序盤に先取点を失い、一転して攻めに転じる。右サイドからハキミも積極的に上がっていた。フランスは、左SBエルナンデス、ボランチのコナテが対応した。守備のブロックを築きながら、エムバペのスピードを生かし、効率よくカウンターを仕掛ける力がある。試合巧者のフランスの経験値と個人技が、モロッコを圧倒した試合だった。




 
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