先日、砂防ダムで小石を拾い集めていたら、気づくと後ろにウリ坊が一頭いた。
今年生まれた三兄弟の末娘だと思われる。
いつも三頭と母親が一緒に行動していることが多いのだけど、その日は他のイノシシたちは見られず。大分生活に慣れて来て少し離れた場所まで単独行動できるようになったのだろう。人もウリ坊に対して危害を加えるようなことはあまりないので人を恐れない。
内心、鼻の穴に爆竹突っ込んで、人間に対する恐怖心を植え付けたいところなのだが、街へ出て行っても「爆竹は何処に売っているの?」と言う感じで、この夏は爆竹が買えなかった。
庭がイノシシで荒らされて、花壇の花が半分ぐらいは死滅させられた。あちこちに穴も掘られてしまっていて、修復はまるで追い付いていない。いつも荒らしに来るイノシシは単独行動なので恐らくはオスの同一個体。私が寝てしまう午前2時以降、午前5時ぐらいまでの間に好き勝手やってくれる。めっちゃ迷惑していて、岐阜までいってトンコレラ菌を採取して生物兵器を作りたいとまで思うぐらいである。
犬を飼って番犬的に使う方法もあるのだが、簡単に手に入るペットの犬ではイノシシに太刀打ちできないのが本当のところである。イヌ・サル・キジとかコンプリートすれば戦力になるのだろうか?
特攻隊の記事は頻繁に書かれていることが多いが、少し真面目に調べてみれば、かなり極端な断面でしか見ていないことがわかる。もうちょっと踏み込んでとらえ、教育的題材にしなければ、戦前の日本の軍隊は「愚かだった」という印象しか後世に残せない。
大きな問題は現代にも続いている「縦割り行政」である。
陸軍の側では戦闘機の開発はそれなりに進んで、零式(ゼロ戦)に続く戦闘機として、一式・二式・三式・四式と毎年のように新型機が開発され実戦配備されていく。最終局面で実戦に投入された五式戦闘機はそれなりの戦果を上げたように伝えられている。
他方海軍では戦闘機の開発に失敗が続いて、開戦当初こそ無敵と思われた零式をずっと生産運用していくことになってしまった。連合軍に研究され、ゼロ戦の性能ではドッグファイトでも負ける、レーダーに捕捉され全滅させられる、とかで当然だが海軍の主要な艦船は次々と沈められてしまっていた。燃費の悪い戦艦大和など運用すらできなくなっていて呉で浮き砲台になってしまっていた。何も打つ手建てがないので、性能の悪い飛行機に爆弾を付けて「特攻する」という戦術しかなくなってしまったのが実情。
仮に特攻しなかったら、ドッグファイトで全部撃ち落されてしまうのである。パイロットの運命は余り変わらなかったのではないか、とさえ思える。
いわんや新型の戦闘機が十分な数だけ供給されていれば、そもそも飛行機とパイロットを無駄に消費する戦術など採用するはずもない。レーダー開発進捗とともに、冷静に歴史を見なければならない点だと私は思っている。
陸軍と海軍の軋轢がどのぐらいあったのかよく分からないが、もっと情報共有できていればこうはならなかっただろう。特攻隊の犠牲者が、日本の縦割り行政の犠牲者だとおもうなら、学校でもぜひともそう教えて欲しいところである。
現代の日本でも、この問題は色々なところに出てくるのだが、なかなか解決への道は遠い。縦割り行政をなくすために政治家が力をもってしまうのは、それはそれで別の懸念もある。民主主義の欠点というならそうなのだろう。社会は急に良くなったりするものではない。憲法にも書かれているように、私たちが努力を積んで良い社会になるように地道に進むしかない。
こんな教訓の話を、単に涙を頂戴する美談として収めるだけではなく、もうちょっと歴史的背景を学べる題材にしてほしいものだと思う。
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■生きて帰った元特攻兵 恥じる息子に両親がかけた言葉
(朝日新聞デジタル - 09月18日 10:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5293557
73年前の晩夏、京都府亀岡市に生きて帰ってきた元特攻隊員の男性がいる。「もう二度と会えない」と家族や友人と涙で別れ、死ぬ覚悟を決めて出撃の日を待ったが、その5日前に終戦を迎えた。恥ずかしさでいっぱいの帰還だった。しかし、両親は18歳の青年を大喜びで迎えた。
男性は同市曽我部町に住む木内直(ただし)さん(91)。現在の同市千歳町の出身で、パイロットは幼い頃からのあこがれだった。亀岡農学校に進学後も空への思いは消えず、海軍飛行予科練習生(予科練)を志願。校長は「農学校からの受験は初めてだ」と喜び、全校生徒の前で紹介した。
心躍らせて鳥取県の美保海軍航空隊に入隊したのは1943年10月。だが、待っていたのはバッターと呼ばれる「軍人精神注入棒」で尻を殴られる毎日だった。行進がそろわない。ハンモックを時間内につるせない。そのたびに教官が「気合が抜けとる」とバッターを振り下ろす。痛みで仰向けに寝られず、「なんでや」と忍び泣く仲間もいた。
44年5月、1週間の休暇が与えられ、「親兄弟に最後の別れをしてこい」と命令が下った。七つボタンの予科練の制服を着て実家に帰ると父政一さん、母ミツエさんは驚いた様子だった。「これが最後。もう帰れん」と伝えると、2人の目から涙があふれた。両親が慌てて親戚を集め、「最後の写真」を撮った。
配属先は鹿児島県の航空基地。我が物顔で飛ぶ米軍爆撃機B29の編隊に圧倒的な戦力差を感じたが、そんな感想は口にはできない。出撃する特攻隊員の先輩を見送る度に「自分も続かなくては」と気を引き締めた。精鋭機は失われ、「赤とんぼ」と呼ばれた複葉の練習機で夜間の実戦訓練を繰り返した。敵機の攻撃を避けるためだったが、自機の位置を見失って墜落する事故が続いた。
45年の8月に入り、上官が言った。「お前が突っ込むのは20日や」。爆弾を積んだ「赤とんぼ」を特攻機としてあてがい、沖縄の海で敵艦に体当たりせよとの指示だった。「一機一艦」を掲げ、死ぬために厳しい訓練を重ねてきた。「覚悟しているので何も怖くはない。自分の番が来たんや、と思ったぐらいだった」
終戦はあまりにも突然だった。「わしらが残っている。なんで負けたんや」。仲間同士で泣きに泣いた。意気消沈する中、両親に最後の別れを告げた1年前の光景が頭をよぎった。亀岡駅でも旧友たちが涙ながらに見送ってくれた。「生きているのがおかしいぐらいだ。恥ずかしい」。郷里を思うほど気持ちが塞いだ。
夏が終わる頃、帰るはずのなかった亀岡に着いた。両親は木内さんを見るなり「よう帰れた!」と声を上げた。自分を見送った集落の人々も帰還を喜んでくれた。敗戦を悔やみ、生きて帰ることを恥とばかり思っていたが、郷里の人々の意識はまるで逆だった。誰もが「早いこと戦争が終わって良かった」と感じていることに気づいた。
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