以下、曽野綾子のお話の要旨、2回目です。
「してもらう」から「与える」へ
立派な大人とはどういう人か、私たちの一生を振り返ってみるとわかります。人は子どものときには徹底して何かをしてもらいます。おっぱいをもらって、抱っこしてもらって、お母さんに手を引いてもらって・・・。
なんとも温かい思い出です。与えてもらう生活を子供時代はずっとしていて、やがて小学生くらいになると、お母さんのお手伝いをするようになる。中学生、高校生になると重い荷物を持ってあげたり、社会人になって、親が病気のときは車で病院まで連れていってあげたりするようになります。そんなふうに、親から与えられていたのが、今度は親に与える立場になったときに、人間は初めて大人になります。
あかちゃんが父母を育てる
こういう話をすると、いつも思い出すことがあります。日本の北陸地方に住むベルギー人の神父の方から聞いた話です。
ある家に、足が不自由で、言葉発音がはっきりしない障がいがある夫婦がいて、「その夫婦間に生まれた赤ちゃんが父母を育てている」というのです。よちよち歩きの赤ちゃんなのですが、両親は子どもの面倒を見てあげられない。その赤ちゃんはおもらしをすると、自分でおむつを持ってきて、母親の前で寝転ぶ。そうすると、母親は歩けなくてもおむつを替えてあげることはできる。汚れたおむつはその赤ちゃんがゴミ捨てにいくそうです。
それから、父親が「おしっこ」と言うと、尿瓶(しびん)を持って父親のところに行き、父親が用を足すと赤ちゃんが捨てに行くというのです。
「赤ちゃんが父母を育てる」とは、こういうことだったのです。
でもそれは子どもにとって、必ずしもかわいそうなことではない。見ている人は誰でも感心するし、子どもも自然に、自分は両親にとって必要な人間なんだということがわかってくる。それが子どもにとって実に大きな、自然な、無理のない自信になる。人間というのは、やろうと思えば誰の世話でもできるんですね。こういう「大人になるための厳しいチャンス」を日本人は子どもに与えなくなってしまった。過度に保護するのは良くないことです。これは老人もまた同じなのです。
昨日の日記「曽野綾子・老いとくれない族」で次のように書きました。
「受ける」ということは、永遠に足りないという連鎖反応を起こします。ところが、「与える」は逆です。例えば親を亡くした子どもに毎月少しずつでも寄付していると、「与えさせていただいた」という感覚で限りなく心が満たされるのです。この心理的なからくりを、今の人はあまり自覚していないのかなと思います。
受けるより与える方が幸せである
聖書の中に、「受けるより与える方が幸せである」という言葉があります。これは戦後の教育には、まったくなかった要素です。人権とは要求して手に入れるものであるけれど、与えるものでもある。空気を吸っては吐く、食事を食べては排泄する。すべて同じことではないでしょうか。取り込むばかりではだめだということをきちんとお教えていないように思います。
私自身顧みて、「受けること」が多いか、「与える」ほうが多いのか、反省をしてみたいものです。
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