ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんのお話が「やすらぎ通信」に掲載されていました。
以下、「やすらぎ通信」に掲載されていた内容(一部要約)です。
“きれい”にはなれなかったが、“美しくなった”女の子の物語です。
あるところに、ひとりの醜い女の子がおりました。蕪(かぶら)のような顔の造作で薄汚く、両親もいないこの子は、村の悪童たちから“泥かぶら”とはやされ、苛められ、それに腹を立てて立ち向かい、顔は醜くなる一方でした。
そんなある日、旅人のおじさんが通りかかり、暴れている泥かぶらに言いました。
そんなに口惜しいのなら、
おじさんの言うことを、来る日も来る日も守ってごらん。
きっと、村一番の美人になるよ。それは、
「いつもにっこり笑うこと」
「人の身になって思うこと」
「自分の顔を恥じないこと」
その日から、美人になりたい一心で、泥かぶらの自分自身との闘いが始まるのです。
はやし立てる悪童たちに投げつけようとした石を、
「いつもにっこり笑うこと」
と呟いて、にっこりとする泥かぶら。
自分に辛く当たった夫婦だったのに、病気に必要な薬草が、
険しい崖の上にしかないと知って、
「人の身になって思うこと」
と呟いて、代わりに取ってきてやる泥かぶら。
ほかの娘たちと自分を比べて劣等感のかたまりだったのが、
「自分の顔を恥じないこと」
と呟いて、小高い丘の上で晴れ晴れと、
「泥かぶらは泥かぶら」と、笑顔で叫ぶ泥かぶら。
彼女の闘う相手は、いつしか村の悪童たちではなく、自分自身に変わってきていました。
そして、何を言われてもニコニコしている泥かぶら、喜んでお使いをし、子守をする泥かぶらは、いつしか村の人気者となり、村の人々に愛される女の子になっていたのです。
そんなある日、その村に一人の人買いがやって来て、借金のかたに、村一番の器量よしの娘を連れて行こうとします。
泣いていやがる娘と、泣いて詫びる親の姿を見た泥かぶらは、前に出て言います。
「おじさん、私には親も兄弟もいないんだから、私を代わりに連れて行って」
人買いは、渋々、泥かぶらを連れて行きます。そして道すがら泥かぶらは、自分の行く手に待ち受けている運命も知らぬ気に、村での楽しかった生活、かわいい子供たちの話を明るく語り、人買いの肩を揉んでやったり、食物をととのえてやったりするのでした。
泥かぶらの笑顔と優しさ、その信じ切った姿に、人買いの心はいつしか動かされてゆきます。
ある朝、泥かぶらが目を覚ますと、人買いの姿はなく、そこには一通の書き置きが残されていました。その紙には、
「ありがとう。仏のように美しい子よ」
と書かれてあったのです。
泥かぶらは、結局“きれい”にはなれませんでしたが、“美しく”なれたのです。おじさんの言葉どおり、村一番の美人になったのでした。
“きれいさ”と“美しさ”とは違います。
お金を使って高級な化粧品をつけたり、エステに通ったり、整形手術をしたりすれば、ある程度きれいになることも可能でしょう。
しかし、美しさは、お金で買えないものなのです。それは、人間の内からの輝きであって、人が、自分自身の本能、欲求などと闘うときにのみ得られる輝きなのです。
腹立たしいこと、言い返したいことがあっても、グッと我慢して、にっこりほほえむこと。
相手の出方に左右されたり、振り回されたりしないで、相手の身になって、思いやること。
自分と他人を比較せず、自分のかけがえのなさに気づいて、
「私は私、ひとはひと」
と割り切る勇気と健気さ。
これらはどれ一つとっても易しいものではありません。
私たちは果たして、きれいになるために使っている時間のほかに、心づかいを、美しくなるために使っているでしょうか。
「顔の造作は親の責任。顔の表情は本人の責任」なのです。
1.いつもにっこり笑うこと。
2.人の身なって思うこと。
3.自分の顔を恥じないこと。
この三つの化粧品を忘れないようにしましょう。
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