福田村事件
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いつか河を超えて
福田村殺人事件 この題材でよく映画を作ってくれました。
映画とは社会の合わせ鏡だとつくづく感じる。
今の日本のTVドラマがバラエティー番組が、こんな体たらくなのかというと、社会がそんな体たらくだからだと思います。
朝鮮から村に帰ってきた夫婦(井浦新/田中麗奈)を軸に、村人達、讃岐の行商団、そして新聞記者などからなる群像劇で、この事件の幾重にも渡る要素を浮かび上がらせる作風。
軍国主義化と言論封殺、植民地政策、差別の構造と貧困、報道のあり方。
疑心暗鬼と集団ヒステリー。100年前に現実に起きた事。
※疑う気持ちが強くなると、何でもないことでも恐ろしく感じたり、怪しく感じたりする
また、この事件をシンガーの中川五郎さんが「1923年福田村の虐殺」(23分9秒)という曲にし、CD「どうぞ裸になってください」に収録している。
見知らぬ人には親切に 苦境の人には助けの手を
それがよその土地の人であれ よその国の人であれ
たとえ自分たちと違っていても 言葉が違っていても
信じることから始めよう それが人の心というもの
昔も今も日本人は よそ者を嫌い
身内だけで固まる 狭い心の持ち主なのか
デマや流言飛語に弱いのは 臆病者の証拠
信じることから始めよう 人はみんな同じ
朝鮮人だとか部落だとか 小さな日本人よ
朝鮮人だとか部落だとか 小さな人間よ
ここから脱線します
この映画は河が舞台になっている。
※「河向こう」
昔は現代ほど河川に橋が架かっておらず、また有料の橋も多かったので、川によって人の往来が分断されていることは珍しくなかった。 故に川を越えると文化、風習、社会ルール(法律)が異なる事も珍しくなく、 自分から見て相手の風習や考え方が異なること、許せない事、などを ”そんなことは川向うの理屈だ” といったのが始まり。
自分の大好きなミュージシャン
小山卓治の歌に
「いつか河を越えて」という名曲がある。
この曲は発売当時
出だしの「河向こう」という言葉が差別用語として
自主規制にあいました。
この歌で歌われている「河向こう」という言葉は
けっして自主規制されるような意味ではありません
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