mixiユーザー(id:7846239)

2022年10月09日15:12

47 view

キーシン:『ザルツブルク・リサイタル』

【収録曲】

Disc 1
1 ベルク: ピアノ・ソナタ Op.1
2 フレニンコフ: ピアノのための3つの小品Op.5から第3曲「舞曲」
3 フレニンコフ: ピアノのための5つの小品 Op.2
4 ガーシュウィン: 3つの前奏曲

Disc2
5 ショパン: 夜想曲Op62から第1番ロ短調(第17番)
6 ショパン: 即興曲 第1番 変イ長調 Op.29
7 ショパン: 即興曲 第2番 嬰ヘ長調 Op.36
8 ショパン: 即興曲 第3番 変ト長調 Op.51
9 ショパン: スケルツォ 第1番 ロ短調 Op.20
10 ショパン: ポロネーズ 第6番 変イ長調 Op.53「英雄」

(アンコール)
1 メンデルスゾーン:無言歌Op.38より第6曲変イ長調「デュエット」
2 キーシン:4つのピアノ小品Op.1より第2曲「ドデカフォニックス・タンゴ」
3 ショパン:スケルツォ第2番変ロ長調Op.31
4 ドビュッシー:ベルガマスク組曲より第3曲「月の光」

エフゲニー・キーシン(ピアノ)

録音:2021年8月,祝祭大劇場,ザルツブルク(ライブ)
DG 4862990(ライブ)

去年の夏にエフゲニー・キーシンが行ったザルツブルク音楽祭でのリサイタルが収められたCD。リサイタルは,昨年7月に98歳で逝去したキーシンの師,アンナ・パヴロヴナ・カントールに捧げられた。キーシンはわずか6歳のとき,モスクワのグネーシン音楽学校で彼女からレッスンを受ける。「アンナ・パヴロヴナは,私たち家族にとって先生以上の存在になった。彼女は私の唯一のピアノの師であり,私が現在ピアノで表現できることはすべて彼女のおかげ」 とキーシンは回想する。リサイタルと同様,このライブCDも恩師の思い出に捧げられている。

このディスクを聴いていると,キーシンが多くのファンから支持される秘密が分かる。彼が弾くピアノは多くの人の好みに合う音色を持ち,演奏する作品の彫琢も行き過ぎを避け,さらにあまり一般的でない作品をプログラムに織り交ぜ愛好家を引き付ける工夫も凝らす。久しぶりにキーシンの演奏を聴いて,こんな感想を持った。

まず,エフゲニー・キーシン最大の魅力は,だれの耳にも心地よいピアノの響きだろう。柔らかくふくよかで,それでいて音は必要最小限の凝集度を保ち,何よりもいつまでも聴き続けたくなるような魅力的なピアノの音だ。素晴らしい声を持つ声優のナレーションについつい引かれるところにどこか似ている。キーシンが奏でるピアノの音は,彼自身が苦労を重ねた末に獲得した音色であることは間違いないけれど,彼が持って生まれた音色という見方もできそうだ。つまり,こういう音でピアノを弾こうとイメージできる能力を授けられたという意味で。

このことを痛感する典型は,ベルクのピアノ・ソナタだ。新ウィーン学派の作品を聴くとなると,つい身構えてしまう。だが,キーシンの演奏でベルクを聴いていると,知らないうちに全面的に武装解除されてしまう。警戒すべき現代音楽ではなく,並はずれた美しい音楽に接しているときに近い気持ちになる。ベルクのソナタが換骨奪胎されているような気がしないでもないが,それはそれで大きな魅力を放っていることは間違いない。

また,キーシンが演奏するにあたって,演奏曲目の造形を厳密に追求し過ぎないことも,彼のピアノ演奏を受け入れやすくしている。どの程度の彫琢を施せば聴衆に届くのかを本能的に分かっていると言い換えても構わない。作品に内在する構造を明瞭に表現することを目指せば,どうしても堅苦しくなってしまう。反対にそのことに無頓着になると,演奏は平板になってしまい聴く者を引き寄せる魅力を失う。キーシンはどのあたりに線を引くべきか直感的に分かっているに違いない。

例えば,ガーシュウィンの3つの前奏曲。深いタッチを避け,ある種の疾走感を優先させてこの曲を弾く。そのような弾き方をすることでメロディー・ラインを強調し,ガーシュウィン特有の節回しの表現を可能にしている。この前奏曲の第2曲はテンポが遅めだ。ひとつ一つの音の造形より,フレーズの音の連なりを重視する。当たり前の話になってしまうが,ある曲をどう弾けばその曲の特徴を伝えることができるかを的確につかむことができるのだろう。

最後に,演奏技術の巧みさに加え,ショパンの曲とベルク,フレニンコフやガーシュウィンを組み合わせるセンスも面白い。プログラムを組む際にも,ある種の冒険が不可欠だ。全てのリサイタルの来場者がそうだというわけでないが,演奏曲目がショパンばかりであればその演奏会を避けるファンも出てくるだろう。初めて接する作品やあまり馴染みのない音楽に引かれてチケットを買う人たちもいるはずだ。さらに,キーシンは選曲で一工夫を凝らす一方,演奏面でもお客に配慮する。つまり,ベルク,フレニンコフやガーシュウィンの演奏でショパンとの連続性を際立たせる。とりわけ,新ウィーン楽派のベルクは多彩な表情を持っているが,その中でもロマン派に通ずる側面を強調して,ロマン派好みの聴衆に対するアピールに怠りはない。フレニンコフやガーシュウィンとロマン派との距離は,ベルクとの距離に比べ遥かに近い。

ちなみに,ティフォン・フレンニコフ(1913年6月10日〜2007年8月14日)は,ソビエト連邦及びロシア連邦の作曲家。芸術家としての力量よりも,政治的な才覚や権勢欲によって有名になった。交響曲,ピアノ協奏曲,ヴァイオリン協奏曲やチェロ協奏曲のほか,オペラ,オペレッタ,バレエ音楽,室内楽に映画音楽などを残す。1948年にアンドレ・ジダーノフによりソ連作曲家同盟の書記長に任命され,ソ連崩壊まで書記長職にとどまる。書記長に就任時,作曲家同盟総会の席上でプロコフィエフとショスタコーヴィッチを名指しで「形式主義者」の烙印を押し、その後も両大家を激しく譴責し続けた。

キーシンは聴衆がピアノ演奏に何を求めているのか的確に把握する才覚に恵まれたピアニストのようだ。そして求められていることをピンポイントで表現する能力でも秀でている。そのような才能も含めて,音楽的に恵まれたピアノ演奏家なのだろうと思った。
3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年10月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031