誘拐事件の顛末は小学校低学年の時に、
登下校時は安全に気をつけるようにと言う話のついでに母から聞いた。
それまで、祖母や伯母たちに家柄自慢をさんざん聞かされても、
なんかピンとこなかったわたしだが、この話には素直に感心してしまった。
父親の仕事関係で誘拐されるなんて一般家庭に育ったわたしにはあり得ないし、
(そんな経験はなくて良いのだけれど……)
十人以上もの使用人がいて、子どもの数だけ車を買って運転手を雇うなんて、
どれだけお金持ちなんだろう?
しかし、長ずるに従って疑問がわいてきた。
中学(現在の高校)卒業と同時に一文無しになった祖父が、
金銭感覚なんて言葉すらご存じなさそうな曾祖母を養いながら、
必死で軍務に励んで異例の早さで出世を遂げたとしても、
軍の高官ってそんなに贅沢ができるほど俸給が高かったのかしら?
と言う訳で、当時の軍人の月給と物価を調べてみたら答えはNO。
祖母や伯母たちは見栄をはるあまりはたまに事実とはかけ離れたホラ話をしたが、
たいら母はそんな見栄とは無縁な人なので直接本人に尋ねてみると、
「それは薫兄さんのお母さんの実家から仕送りがあったから」
と教えてくれた。確かに、薫伯父の亡き母の実家は青森で広大なりんご園を営む素封家。
将来、りんご園を継ぐ大事な一人娘の生んだ孫が、
気のきつい継母や腹違いの妹たちに囲まれて肩身の狭い思いをしないようにと、
薫伯父の生活費はもとより他の家族も贅沢ができるくらい過分な仕送りをしたらしい。
皮肉なことに、この過分な仕送りがまた祖母の癪に障り、
「"ど田舎"の農家が金持ちぶっちゃって。わたしの実家の方がずっと金持ちだったわ」
と何十年経っても愚痴っていた。
祖母の実家は某県の高額納税者一位ではあったが、
潔子が尋常小学校に上がる頃には家業を養子に継がせ、
東京に出てきて芝の増上寺の門前に家を買い楽隠居を決め込んでいた曾祖父は、
元来"ケチ"なのもあって祖母がいくら無心してもろくに金銭的援助はしなかったらしい。
おかげで、大富豪の娘のわたしが、
"ど田舎"の農家の継子の祖父母に毎月お礼状を書かなければならないなんて、
と痛く祖母のプライドは傷ついていた。
それでもなお、わたしには祖父母一家の暮らしぶりは贅沢過ぎる気がした。
お嬢様として一通りの習い事をさせられていた母は、
日本舞踊を習うことになったら祖父が家に舞台を作り、藤間流の家元に教わったと言う。
写真が現存するので真実なのだろうが、
子どものお稽古にそこまでやるには並大抵の財力では追いつかないだろう。
その疑問は大学院に進んで台湾の研究を始め、戦前の資料を読んでいくうちに氷解した。
祖父の実家が金山の投資に失敗した時、
退職金代わりに無断で残りの財産を全て持って行った家令のことは初回にお話ししたが、
その家令が台湾に渡って退職金を元手におこした事業が大成功したことはわたしも知っていた。
当時の台湾は日本の植民地だったので、
日本政府の主導で様々な経済プロジェクトが行われ、
その一つに元家令が大実業家として関与していたという資料を見つけたので、
面白半分に読み進めていったら、
日本側との話し合いに軍部の代表の一人として参加していた祖父の名前を見つけたのだ。
たいら母・潔子が生まれた頃から、祖父はかなり長期間中国大陸に派遣されていた。
本格的に第二次世界大戦が始まる以前は、軍人も長期間外地勤務をすると、
その後は家族と過ごせるよう内地勤務にして貰えるのが常だった。
と言う訳で、祖父は誘拐事件の少し前から日本に戻って来ていて、
九州・沖縄の部隊に所属し、植民地である台湾にもちょくちょく仕事で行っていた。
そして偶然、ある国家的プロジェクトの会議で元家令と再会したらしい。
時代的に軍部に睨まれては植民地で事業を続けるのは難しくなる。
それなのに、せっかく新たなビジネスチャンスをと思って参加した会議に、
自身が後足で砂をかけるようにして逃げた大昔の雇い主の息子が、
軍部の代表の一人として立派な肩書き付きで参加しているなんて……。
祖父が何の気なしに「久しぶりだな」と一声かけただけでも、
相手は生きた心地がしなかっただろう。
元家令は退職金代わりに持って行った財産を全額返したのではないだろうか。
それも、かなりの利子をつけて。
これはなんの根拠もない憶測だが、母に資料を見せて話したところ、
「案外それ正解かも。車を何台も買ったのはこの後だし、
お父さんこの頃からやたら高そうな中国風の骨董とか部屋に飾るようになったもの」
と笑っていた。つまり、元家令は利子をつけて財産を返したうえ、
祖父のご機嫌を損ねないようお中元やお歳暮代わりに骨董品を贈ったということらしい。
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