わたしに模型作りを指南している横で、
自身の作品を仕上げながら父はわたしと実に様々な話をした。
と言っても、その内容は非常に限定されていた。
長じて1度だけごく普通に進路に悩んでいると相談しても、
「今何年生だっけ? 進路ってことは中3か

」
「いや、もう高校1年だよ。留年しそうだけれど……」
「えっ? おまえ割と勉強出来るじゃん」
「成績の問題じゃなくて、春先に肺炎になって1ヶ月半学校休んだから」
「そりゃあ大変だったな。今日から俺と一緒に毎日ロイヤルゼリー飲むと良いな」
「

」
「韓国出張の時に買った高級な朝鮮人参のエキスもやるよ」
「わたしそう言う話しがしたいんじゃないんだけど

」
「人がマジメに心配してやってるのに、なんだその口の利き方は

」
とまあこんな具合にトンチンカンで、
人生を決めるまじめな相談などは皆目できない人だったが、
オタクな話題だと堰を切ったように延々と話し出すという、
良い意味でも悪い意味でもよく世間で言われる典型的古典的なオタクだった。
得意なネタは軍用機と漫画の話し。
特に、共通の趣味である漫画の話題は興味深かった。
彼は『コグマノコロスケ』から『凸凹黒兵衛』『タンクタンクロー』などの幼年漫画に始まり、
田川水泡の国民的ヒット漫画『のらくろ』を経て、
男女七歳にして席を同じくせずという風潮だった戦前の男女別学の時代に、
漫画を読ませてという口実で積極的に可愛い女の子の家に遊びに行って、
少女倶楽部に掲載されていた同じ田川水泡作の『窓野雪男さん』のように、
少女漫画の走りのような作品まで隈無く読んでいた。
わたしと一緒にプラモデル作りを始めた頃は、
家から電車で1時間はかかる会社に勤めていて、
ジャンプ、サンデー、マガジン、キング、チャンピオンと、
通勤電車で読むように毎日、違う少年漫画誌を駅のキオスクで買っていたため、
父の知識を受け継ぎ、帰宅後にそれら漫画を読ませて貰っていたわたしは、
同い年の子どもたちより格段に漫画の知識が豊富になっていった
こうして身近な先達である父の影響を受け、
わたしはなんの疑問も持たず当たり前のようにオタク道へと歩を進めた
模型や漫画はもとより、
パーキンソン病らしき症状(まともに診断を受けなかったため病名は未確定)が出て、
手足が自由に動かなくなる直前まで、
モー娘。のステージや静岡の模型のイベントやに杖をつきながらもアクティブに参加し、
手足が不自由になった後もパソコンを使って最新のオタク情報を収集、
手先を使う細かい作業は母に頼みながらも亡くなる直前まで得意の料理を作り続けた父は、
わたし的には理想のオタクだった。
残念ながら、理想の父親ではなかったけれどね
て言うか、父親らしきことをして貰ったことって数えるほどしかないわ。
喧嘩っ早さが禍して自身が社長を務める会社を突然クビになっても、
社長のプライドなんか半日で捨てて次の日には迷わずハローワークに行き、
なんだかんだで妙に好条件の再就職先を見つけてくる要領の良さと、
家庭にお金を入れるということだけは守り続けたところは立派だったと思うけれど。
そもそも自身が社長を務める会社を、
ある日、突然クビになる人はあまり多くないとは思うが……。
※画像1:『凸凹黒兵衛』1966年、講談社。田河水泡紫綬褒章受賞記念復刻版。
恋多き父の初恋は、この漫画に出てきた白チャンという白ウサギだったとか。
ケモナーだったのね。今だったらサーバルちゃん萌えになるのかしら?たーのしー!
※画像2:父の遺影は亡くなる前年の椿山荘での花見の画像にした。
撮影者は母。わたしはトリミングされた見えない部分で足のきかない父を支えている。
椿山荘の庭はバリアフリーとはほど遠く足の不自由な人の花見にはお薦めできない。
最後に行ったのが2011年だから、今は違うかも知れないけれど。
※画像3:亡くなった直後のドルオタ感溢れる父の自室。
モー娘。のミュージカルは毎年見に行っていたが、
『リボンの騎士』の年はわたしが頑張ってネットで前から2列目の真っ正面の席を取ったら、
「フットライトが邪魔で足が見えなかった」
と文句を言われて切れそうになったのも今となっては懐かしい思い出だ。
パーキンソン病らしき症状が顕著になったのは2008年なので、
2009年以降カレンダーは貼り替えられなかったようだ。
しかし、今気付いたんだがなんで南アルプスの天然水のラベルが貼ってあるんだろう?
もしかしてモー娘。のキャンペーンでもやっていて集めていたのかしら??
ログインしてコメントを確認・投稿する