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2015年11月01日16:33

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“New Seasons”クレーメル&クレメラータ・バルティカ

【プログラム】
1 アレクサンドル・ラスカトフ: 「<四季>からのダイジェスト」より1月,5月,12月
2 フィリップ・グラス: ヴァイオリン協奏曲第2番「アメリカの四季」
       〜〜〜休 憩〜〜〜
3 梅林 茂: ヴァイオリンと弦楽オーケストラのための「日本の四季」
4 アストル・ピアソラ: 「ブエノスアイレスの四季」

ギドン・クレーメル(ヴァイオリン独奏・指揮)
クレメラータ・バルティカ

《アンコール》
ピアソラ: オヴリビオン
ワインベルク: ボニファッチ ホリディズ

2015年10月21日(水),19:00〜,サントリーホール


クレーメル&クレメラータ・バルティカが,“Seasons”(「四季」)をテーマにした4つの作品を携えて来日した。選ばれたのは,ロシア,アメリカ,日本,アルゼンチンの四季がモチーフの作品。どの作品も比較的新しいものばかりだが,以前から取り上げることが多かった「ブエノスアイレスの四季」と「<四季>からのダイジェスト」に,「アメリカの四季」と「日本の四季」が加わったきたラインナップである。

アレクサンドル・ラスカトフの「<四季>からのダイジェスト(チャイコフスキー:『四季』Op.37aによる)」は,「1月」から「12月」までの12曲の小品で構成されるチャイコフスキーのピアノ作品が原曲。ラスカトフは,それぞれの作品を独奏ヴァイオリン,弦楽合奏,打楽器などのためのダイジェストをつくった。ダイジェストといっても,単なる要約ではなく,チャイコフスキーの原曲とラスカトフが付け加えた音楽のコラージュといった方がイメージしやすいだろう。現代音楽とチャイコフスキーが同居する作品だが,じっと耳を傾けていると,ロシアの季節の移ろいを感じ取ることができる不思議な作品だ。この日,演奏された「1月:炉辺」,「5月:白夜」,「12月:クリスマス」は,いずれも弦楽合奏のための作品で,クレーメル抜きの演奏である。

フィリップ・グラスの「ヴァイオリン協奏曲第2番『アメリカの四季」は,2009年12月9日に初演された作品。この曲は,「プロローグ」−「1楽章」−「ソング第1番」−「2楽章」−「ソング第2番」−「3楽章」−「ソング第3番」ー「4楽章」という構成。4つの「楽章」を3つの「ソング」,すなわち無伴奏ヴァイオリンによる間奏曲でつなぐ。各「楽章」は4つの季節を象徴している。イタリアの四季とも,ロシアの四季とも異なる北米の四季を抽象画風の手法で表す。直線を多用した抽象画を連想するのは,この作品で大都会の遠景がモチーフとして用いられているせいもあるだろう。郊外にある手入れの行き届いた公園から遠望できる都会のスカイラインが,この「アメリカの四季」の重要な構成要素になっているところが面白い。ミニマル・ミュージックの旗手,フィリップ・グラスの新境地を知るには格好の作品といえる。

梅林茂の「日本の四季」は委嘱作品で,今年の9月29日,ドイツのクロンベルク・アカデミー・フェスティヴァルで初演された最新作。「夏」−「秋」−「冬」−「春」の4楽章から成るヴァイオリン協奏曲といえる作品。曲のあちらこちらで,日本的な抒情が,といっても現在の日本の抒情が,顔をのぞかせる瞬間がある。

アストル・ピアソラは,バンドネオン奏者であり作曲家でもあった。そのピアソラは,踊るためのアルゼンチン・タンゴから聴くためのタンゴを生みだした。彼が作曲した「ブエノスアイレスの四季」は,独立した4つの作品の集合で,4楽章で構成される組曲などではない。1965年に,急いで作曲された4曲のうちの1曲が「ブエノスアイレスの夏」。1969年に「ブエノスアイレスの秋」が作曲され,この頃から「四季」を完成させようという考えがめばえた。同年から翌年にかけて,「冬」と「春」が書かれ,ブエノスアイレス四部作の完成をみる。「ブエノスアイレスの四季」は,同時期にピアソラ五重奏団が出演したレジーナ劇場でのロング・ラン・リサイタルで披露された。

クレーメルとクレメラータ・バルティカの演奏は,何度聴いても深い感銘を受ける巧さだ。「クレメラータ・バルティカ」を日本語に訳すと,(熟れない訳だが)「ギドン・クレーメルが率いる(創設した)バルト諸国出身者から成る室内オーケストラ」ということになろうか。エストニア,ラトヴィア,リトアニアのバルト3国は,クレーメルを筆頭に少なくない数の優れた演奏家を輩出している地域だ。音楽家の宝庫,バルト3国の若手有望株の中から,クレーメルの厳しいオーディションで選ばれたアンサンブルが優秀でない道理がない。それ以上に,クレーメルの謦咳に接し,日頃から薫陶を受けているのだから,世界屈指のアンサンブルに育つのは自然の成り行きだろう。

とはいえ,彼らの巧さが,ある意味で仇になったように思う。クレーメルとクレメラータ・バルティカの比類のない高度なテクニックによって,「現代作品」にありがちな底の浅さや薄っぺらさが露呈してしまった。すべての演奏曲目に当てはまるわけではないが,いわゆる「イージー・リスニング」に限りなく近い音楽に聴こえてしまう。この夏に,このコンビがリリースした新譜“New Seasons”を,この公演の直前に聴き直したときに感じた悪い予感が的中した。CDを買った直後に聴いたときは,それなりに面白く聴けたのだが,予習のつもりで聴き直したとき,薄味のありふれた作品という印象に変わった。

この演奏会で,CD以上に好ましからざる演奏という印象を受けたのは,おそらくサントリーホールの広々とした空間で音が拡散したこともいくぶん関係しているだろう。だが,それ以上に音の純度を徹底的に追求するため,音の不純物をフィルターで徹底的に除去してしまい,味わい深さまで取り除いてしまう結果を招いたという事情が大きいようだ。水の分子以外の不純物を含んだミネラル・ウォーターが美味しく感じられるのに対し,水素と酸素から化学反応で作った純粋な水が味気ないのに似ている。

内容的に濃厚な作品に比較的良好な印象を持った。その筆頭は,やはりピアソラの「ブエノスアイレスの四季」だろう。その次は,ラスカトフの「<四季>からのダイジェスト」で引用されたチャイコフスキーの音楽が充実していた。グラスの「アメリカの四季」における,大自然と大都会のコントラストは興味深い趣向だが,内容的にもう少し充実していればと惜しまれる。梅林の「日本の四季」は,はかないまでの繊細さねらったのだろうが,パワーの点で物足りない。

この日のサントリーホールは,演奏者に気の毒なくらい空いていた。多めに見積もっても座席の7割程度が埋まっているくらいか。正確に数えると,売り出した席の半分を少し超えるくらいの客しか入っていなかったかもしれない。いわゆる「現代作品」が並ぶプログラムで集客することが,クレーメルの名声を以てしても,いかに難しいかの証と受け取っていいのだろう。「現代作品」は好きなジャンルのひとつだが,この公演を聴いた結果から判断して,わざわざ足を運ぶべき演奏会ではない。作曲家の力量は,完成した作品の中で露呈してしまうという過酷な現実を目にした。

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