mixiユーザー(id:32437106)

2026年10月07日23:09

204 view

<ガザでの大規模衝突から3年。中東和平の原点へ ジミー・カーター大統領の取り組み> 第1回 1973年の第4次中東戦争 キッシンジャー国務長官の巧みな外交政策

遡ること2026年2月のミラノ・コルティナ冬季五輪の閉幕後、アメリカとイスラエルによるイラン攻撃が始まった。スポーツの祭典が終わるのを待つかのように、国際政治は再び軍事衝突へ傾いた。
実はこの構図には前例がある。1980年のレークプラシッド冬季五輪である。この大会でもアメリカは男子アイスホッケーで金メダルを獲得したが、その年の夏にはカーター政権がモスクワ五輪ボイコットを主導していた。
二つの冬季五輪をつなぐのは、アメリカとイランをめぐる緊張、そしてスポーツが政治と切り離せないという現実だ。本稿では、2026年の中東情勢を手がかりに、カーター外交と第四次中東戦争、さらにエジプトとイスラエルの和平へと遡って考えたい。

 以下 2026年3月にミラノ・コルティナ五輪パラリンピックに合わせたシリーズ前後編 {「氷上の奇跡」が繋ぐ46年の咆哮 — 2026年イラン危機の暗雲と、受け継がれる「不屈」の哲学 }

前編 3月12日更新 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1991774165&owner_id=32437106&from=list_diary_title

後編(第1章)3月14日更新 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1991784685&owner_id=32437106&from=list_diary_title

後編(第2章と第3章)3月15日更新 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1991794818&owner_id=32437106&from=list_diary_title



<ガザでの大規模衝突から3年。中東和平の原点へ ジミー・カーター大統領の取り組み>

2026年10月7日、パレスチナのガザ地区にて大規模な衝突が起こって3年が経過した。ガザ保健省によると、戦闘開始以降7万4千人以上が死亡した。2025年10月10日の停戦合意以降もイスラエルは、ハマスが「差し迫った脅威」と断定して、空爆を繰り返していた。巻き込まれた一般市民は数知れない。停戦後の死者数は1400人を超えた。AP通信によると、2026年10月5日にイスラエル側は兵士7人が死亡した。

 アメリカのトランプ大統領は2025年7月30日、ハマスが武装解除に合意したと明らかにした。同時に和平計画を実施するためのロードマップ(行程表)を示している。一方ハマス側は、武装解除を否定し、IDF(イスラエル軍)の地区外への撤退を要求した。双方溝は埋まっていない。

 ユダヤ人とアラブ人が民族の壁を越えて共存していくうえでは、大きな壁が立ちはだかっていた。

写真� .ぅ好薀┘觀�国からガザ紛争への時系列表 
フォト

 目次
序文 スポーツと戦争
第1章 スポーツと政治の切り離せない過去。夏季アスリートの夢を犠牲にしたカーター大統領、その人権外交
 (1) モスクワ・オリンピックのボイコット運動
(2) 転機となる1973年の第四次中東戦争

 以下 次回以降更新

(3) 和平に向けた歴史的な協議へ
(4)返還地シナイ半島南部シャルム・エル・シェイクは国際会議の場へ



             序文 スポーツと戦争

2026年は、スポーツ大会が目白押しだった。2月のミラノ・コルティナ大会(イタリア)を皮切りに、6月から7月はサッカーのFIFAワールドカップ・北中米大会が開かれた。9月から10月初旬には、愛知県名古屋を中心にアジア大会が行われた。

スポーツは、国を代表するアスリートの戦いでもある。ただし国際大会において、政治的利害関係も絡み合っていた。大国の首脳達は、スポーツ大会に配慮して事を進める傾向にある。 

2026年2月に開かれたミラノ・コルティナ(イタリア)オリンピックの期間中は、同盟を組むアメリカとイスラエルの両国とイランとの間で緊張が走っていた。閉幕6日後となる2月28日に、アメリカトランプ大統領の作戦命令により、ついに火蓋が切って落とされた。イランと米国の政治情勢は、1980年のレークプラシット大会と2026年のミラノ・コルティナ大会において、実に重なる部分がある。時を経てスポーツでつながるのは、アメリカの男子アイスホッケーチームだった。1980年の地元レークプラシット大会の決勝リーグでは、学生主体の平均21歳の学生チームが、ステート・アマと呼ばれたソ連を打ち破り、金メダルを獲得した。当時率いたハーブ・ブルックスが築いたスピード感を重視するアメリカホッケーは、46年のときを経て受け継がれている。NHL選手が一堂に会した2026年ミラノ・コルティナ大会にて、46年ぶりに金メダルを獲得したのである。

写真�◆.潺薀痢Ε灰襯謄�ナ大会で金メダルをとったアイスホッケー男子アメリカ代表チーム 
フォト

1980年に金メダルメンバーを迎えたジミー・カーター大統領、2026年にも同様に金メダルメンバーをホワイトハウスに招待したドナルド・トランプ大統領は、共にイラン情勢と向き合っていた。カーター大統領は、イランで発生したアメリカ大使館人質事件の対応について協議を重ねていた。対して、トランプ大統領は、イランへの軍事行動に向けて準備を整えてたのである。振り返ると、2022年にも五輪の閉幕後、ロシアのプーチン大統領が、ウクライナ侵攻を命じた。2大会続けてパラアスリートは、国際情勢に翻弄された。1980年当時モスクワ・オリンピックボイコットを決意したカーター大統領の心中を図りながら、人権外交を軸に進めていく。

写真�� 1976年大統領就任を祝うカーター大統領夫妻と、モンデール副大統領夫妻 1976年10月19日
フォト



  第1章 スポーツと政治の切り離せない過去。



 (1)モスクワ・オリンピックのボイコット運動

 スポーツと政治を語るうえで欠かせない出来事は、日本も参加した1980年のモスクワオピックのボイコット運動だった。当時五輪の参加資格はアマチュア選手に絞られていた。五輪の出場を目的に、プロをけってアマチュアにとどまり、人生を狂わせた選手も数知れない。選手達の運命を左右したのは、時の米第39代ジミー・カーター大統領だった。国内のスポーツ業界の非難を見据え、苦渋の決断だったといえる。彼がなぜ同盟国を巻き込んでボイコット運動を展開したのか、またその後の彼の人生をどう左右したのか、検証していく。

   

人権擁護を外交の柱に据え、理想主義を掲げた1980年当時のアメリカ第39代ジミー・カーター大統領は、東側諸国のソ連への対応を迫られていた。既に彼には逆風が吹いていた。国際的には、1979年に米中国交正常化を実現し、新パナマ運河条約を締結した。共に共和党のニクソン政権からフォード政権時代に手はずを整えていた。当時大統領補佐官や国務長官を務めたヘンリー・キッシンジャー氏が職務を担っていた。民主党のカーター大統領は、共和党政権の宿題を引き継ぎ、実行に移したのである。パナマ運河の返還には、根強い議会からの反対も伴っていた。経済の方は、ベトナム戦争介入時から続くインフレが加速する。就任前物価上昇率は年6%、対して第二次オイル・ショックにより、1979年末には13%まで加速したのである。

 外交で対応に当たったのは、1979年12月から始まったソ連によるアフガニスタン侵攻である。共産主義勢力の拡大により、資本主義陣営が脅かされるとの危機感が広がっていた。

 当時先進的だった男女平等や人種差別撤廃を訴えていた彼は、平和の理念を掲げ、領土をめぐる軍事解決を嫌った。抵抗の姿勢として、モスクワ・オリンピックのボイコットを決断し、西側諸国にも呼びかけた。ただ静観することは、自らの信念を裏切ることに等しかった。その『道徳的正しさ』の代償として、米国と同盟国の優秀なアスリート達の夢が絶たれる現実を直視しなければならなかった。ホワイトハウスで、ミラクルオンアイスの立役者を称える彼は、政治の重圧から一時的には開放された。短い宴が終ると、現実に引き戻される。夏季五輪の出場を目指したアスリートの4年分の努力が水泡に喫した。政治的決断の重さと、選手を犠牲にしたという批判は、今も歴史の澱(おり)のように残っている。

  (2)転機となる1973年の第四次中東戦争


 
 カーター大統領の政治判断は一方的に責めることはできない。だだし五輪の金メダルを夢見て日頃から厳しい練習に励んだ西側諸国のアスリートには、大きな傷を残した。
1977年から1981年までの在任4年間は、景気低迷から支持率は確かに伸び悩んだ。当時十分評価されなかったとはいえ、職務中に上げた功績は、後の時代にも受け継がれている。その成果の一つは、1978年9月17日のキャンプ・デービッド合意である。1948年に建国を宣言したイスラエルの生存権がかかる大きな約束事だった。周辺のアラブ諸国で最初に理解を示したのはエジプト共和国だった。当時のサダト大統領の方からカーター大統領に、イスラエルとの外交関係の構築に向けて仲介を依頼したのである。サダト大統領の目的は、1967年の第三次中東戦争時に占領されたシナイ半島の返還である。その見返りに、イスラエルの生存権を認めると訴えていた。エジプトとイスラエルの和平へ向けて、実に11年ごしの外交の駆け引きが行われていた。その一端を担ったのは、ニクソン政権とフォード政権で第56代国務長官を務めたヘンリー・キッシンジャー氏だった。権力と国益を最優先する外交のリアリズム(地政学・実利主義)の代表的な体現者である。一方でカーター大統領は、各国の緊張緩和に務め、若い政策をとる。異なる手法で国際情勢に向き合った両者は、中東情勢にも向き合っていた。エジプトとイスラエルの和平へつながる過程を追っていく。


平和裏に解決へ至るまで実に血なまぐさい戦いを演じていた。エジプトもイスラエルも紅海への出口をめぐって、シナイ半島は抑えておきたい要衝だった。1967年の第三次中東戦争において奇襲攻撃に成功したイスラエルは、スエズ運河を挟んでエジプトに睨みをきかしていた。エジプト側も、アラブの同士を得て、着々と奪還作戦を立てていた。1973年10月6日に決行する。ヨム・キプル(ユダヤ教の贖罪の日)にイスラエル国内における多数派のユダヤ人は、食を控え、慎ましい生活を送る。シナイ半島の防衛部隊も、手を緩めていたのである。隙に乗じてエジプトのサダト大統領は、シリアのハフィーズ・アル・アサド大統領と協力して、イスラエルを挟撃作戦に出たのである。エジプト側はスエズ運河を渡河して、シナイ半島を攻略した。シリア側も600を越える戦車が、イスラエルのゴラン高原への防衛網を突破したのである。

写真�ぁ‖荵夕|翕貔鐐荵�の舞台地図 
フォト

米国を盾にするイスラエル軍は、後手を踏んだものの、急いで立て直す。米軍からの空輸を受けて、スエズ運河を逆渡河する。アリエル・シャロン(後の首相)率いるイスラエル軍機甲部隊が、エジプト第3軍の背後を突き、シナイ半島にて包囲したのである。一方北ではシリア領のゴラン高原へと占領する。圧倒的な軍事力でさらに領土拡大さえ狙えたものの
、米国の説得により、10月23日に停戦に応じた。米国側は、石油資源の枯渇を懸念したのである。現に戦争中の10月17日、OAPEC(アラブ石油輸出機構)が、イスラエルの友好国に対して原油取引価格を、1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70 %引き上げることを発表した。停戦後の12月23日も翌1974年1月以降5.12ドルから11.65ドルへ2倍以上にすると宣したのである。原油を輸入に頼る日本は混乱した。確かに表向きには中立的立場だったものの、イスラエルの最大支援国アメリカとの友好国だったのである。OAPECは、日本も制裁のターゲットに含んでいた。当時の田中角栄内閣総理大臣は、副総理の三木武夫を急遽中東諸国に派遣して日本の考えを表明した。支援国家リストから外すように交渉したのである。合わせて、石油資源の枯渇に備え、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。1974年には消費者物価指数が前年比23%上昇する。狂乱物価として経済史に爪あとを残した。

写真�� 1973年10月22日時に撮影されたキッシンジャー国務長官 
フォト

米国側は決して日本に配慮したわけではなかった。冷戦時代、ソ連との間で駆け引きが行われていた。イスラエルの交戦勢力であるエジプトとシリアの背後には、ソ連が構えていた。盛り返したイスラエル軍は、シリアの首都ダマスカスも射程距離に入れていた。ただしソ連が参戦をちらつかせたことで、米国の外交を引き受けたキッシンジャー国務長官は、イスラエルに引くように求めたのである。打算的だった彼は、エジプトには寝返りを期待した。スエズ運河の利権を握るエジプトは、ソ連をバックにしていた。エジプト軍が壊滅すれば、ソ連が代わりに参戦する可能性も否定できない。第3次世界大戦へ発展する事態を避けたかった。停戦への手はずを踏むため、10月20日にソ連の首都モスクワに飛び、ブレジネフ書記局長と協議を重ね、国連安保理事会に通す停戦案をまとめた。21日には米国案を採用することでまとまり、22日国連安保理議会によって採択された。一方戦線部隊に対しても、停戦へ働きかける。一気に優勢に立ったイスラエルに対してシナイ半島での包囲網を解くように命じた。10月25日、米ソが主導に立った国連安保理決議340に従い、停戦監視団の派遣が決定される。イスラエル軍はなおも、エジプト第3軍団への包囲網を縮めていた。実際キッシンジャー国務長官は、夜間にイスラエル軍が少しずつ部隊を動かすことを黙認していたのである。ただし、エジプト第3軍団の壊滅は避けたい。停戦監視団の派遣により、イスラエル軍は包囲網を解かざるを得なかった。エジプトは領土奪還に失敗したとはいえ、危機的状況を免れた。アメリカに恩を売られたことで、要求をのむようになる。サダトは実際国難を救った英雄として、自国民から評価を受けた。

写真�Α.汽瀬搬臈�領とキッシンジャー国務長官 1974年5月1日 
フォト

1974年2月にアメリカ合衆国との国交を正常化させ、当時のリチャード・ニクソン政権から軍事的経済的援助を受ける。その手はずとして、ソ連の軍事顧問を国外追放していた。1976年には先代のナセル時代から続けていた親ソ・反米の外交路線を完全に反ソ・親米に転換する。同年3月にソ連との友好協力条約を破棄し、翌4月に中ソ対立を起こしていた中国にホスニー・ムバラク副大統領を派遣して毛沢東との共同記者会見を行った。中国から武器を購入することで、安全保障政策でも一体感を深めた。サダト大統領の政策転換のきっかけは、キッシンジャー国務長官の狡猾な外交手腕によって成し遂げられたとみられている。スエズ運河の権益をめぐってソ連を締め出して、軍事援助をちらつかせることで、資本主義陣営に引き入れた。いよいよ米国と経済的援助を受けて、イスラエルとの対話へと動きだしていく。


 以下 出展一覧

詳細 ガザ地区の状況 朝日新聞 2026年10月6日20時30分付
https://www.asahi.com/articles/ASV9T2RN2V9TUHBI02ZM.html


写真� .ぅ好薀┘觀�国からガザ紛争への時系列表 掲載元 東京新聞 2023年10月19日午前6時付 https://www.tokyo-np.co.jp/article/284576

写真�◆.潺薀痢Ε灰襯謄�ナ大会で金メダルをとったアイスホッケー男子アメリカ代表チーム 掲載元 NHKニュース NHK ONE 2026年2月23日1時49分付
https://news.web.nhk/newsweb/na/na-k10015058801000

写真�� 1976年大統領就任を祝うカーター大統領夫妻と、モンデール副大統領夫妻 1976年10月19日
掲載元 ロサンゼルスタイムス https://www.latimes.com/california/story/2024-12-31/column-jimmy-carter-was-the-right-candidate-for-1976-but-was-he-the-right-president

写真�ぁ‖荵夕|翕貔鐐荵�の舞台地図 掲載元 okke https://okke.app/words/p/qcbSMlNWGPU4t

写真�� 1973年10月22日時に撮影されたキッシンジャー国務長官 掲載元 NATIONAL REVIEより https://www.nationalreview.com/corner/the-1973-nobel/


写真�Α.汽瀬搬臈�領とキッシンジャー国務長官 1974年5月1日  掲載元 chapman univercity
https://digitalcommons.chapman.edu/upi_kissinger/15/


以下 関連作品

オイル・ショックについて

・2023年5月16日付 新百合ヶ丘駅開業前後に起こった中東戦争、オイル・ショックを振り返る  https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985069689&owner_id=32437106&from=list_diary_title

 以下 追悼 カーター大統領3部作

�〜以圈�https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989192604&owner_id=32437106

��中編 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989252621&owner_id=32437106

�8緤圈�https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989314216&owner_id=32437106&from=list_diary_title

 以下 ガザ紛争関連

2025年10月4日付 緊迫化する中東情勢(15)ガザ・シティ包囲作戦 国連演説でのネタニアフ首相とロシアのラブロフ外相のスピーチ。停戦へ向けて
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1990826152&owner_id=32437106&from=list_diary_title



■一斉値上げ、過去に何度も=ビール大手、公取委も長年注視
(時事通信社 - 10月07日 15:01)  大手
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=8979121
13 10

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2026年10月
日 月 火 水 木 金 土
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031