あなたは、唯一無の絶対者を、創造主である神(天)以外に定めてはいけません。
何故ならば、神を常に認識していなければ、誰も因果応報や輪廻転生を意識して、思考や行動は出来ないためです。
さて、鈴木老師は「この種の精神(潔い死)が、実に、禅が武士修行者の間に養ったものであった。禅は必ずしも、霊魂の不滅や神の道の義(ただ)しさや倫理的行為について、彼等と議論をしなかったが、ただ合理・非合理いかなる結論にせよ、人がそれに達したものをもって突進することを説いた。哲学は知的精神の所有者によって安全に保存せられてよい。禅は、行動することを欲する。最も有効な行動は、ひとたび決心した以上、振り返らずに進むことである。この点において禅は実に武士の宗教である。『潔く死ぬ』というのは、日本人の心に最も親しい思想のひとつである、死にようにはさまざまあることだが、この特性が在するときは罪人の犯した罪さえ寛大に裁かれる向きがある」と述べています。
まさにこの
『潔く死ぬ』とは「武士道というは、死ぬ事と見つけたり」ですよね。
朱子学の影響を強く受けた武士道は、このように『葉隠れ』に書かれているように、武士道は『死』を文字通り潔く受け入れてしまったという、明らかに誤った哲学がありました。ホーキンズ博士は、「人は身体があるため『意識の成長』を促進する」と述べています。すなわち、あなたの身体を失っては、あなたは、人類の使命と目的をかなえられません
この死生観は、鎌倉時代の武士にとって、
すべて『鎌倉殿』による所領安堵のため、その代償として『いざ鎌倉』の時に、いかに武士として『一所懸命』奉公することに眼目がおかれます。さらに禅宗の「合理・非合理いかなる結論にせよ、人がそれに達したものをもって突進する」精神と結びついていることを示すものです。
かくして禅と、孔子の教えというよりは、むしろ朱子の教えに基づく
『君主への絶対的献身主義』は、武士道に則った生き様になりました。創造主以外を絶対者(絶対的シンボル)とすると、人のハートチャクラは、本来の愛ではなく、好戦的エネルギーを集積します。すると暴走してしまうのは明らかです。鎌倉/室町時代に武士階級は、積極的に朱子学を取り入れた結果、日本軍は世界最強の軍隊であり続けた理由は、そこにあります。
しかしながら、朱子学を武士道に取り入れた結果として、
日本人は、スピリチュアルの普遍真理である神から人類に授かった使命(共栄共存)と目的(悟り)を考慮する余地は、全くなかったことこそ、多くの悲劇的エピソードを無数に生み出す理由となったのです。
これは、残念ながら、孫子の『兵法』にある「武力は最終手段であり、可能な限り利用しないこと」という格言は無視されました。日本は、明治以降もその流れに委ねられました。
明日は、その武士の魂と言われる刀について。
「私達は、太陽の光に似ているものは愛で、ネガティブな思考/想念に似ているのを雲と示せるでしょう。私達のより高尚な偉大なる存在は、太陽に似ている一方で、太陽光を曇らせるところの、ネガティブな思考/想念、疑い、恐れ、怒り、そして憎しみのすべては、最終的に光に、唯一弱々しさを至る所にもたらされます。確信を伴い私達みんなが、癒しの能力を持つと言ったのは、イエス・キリストでした。その聖者、もしくは高い意識の人々に関して定義をするならば、ネガティブな性質の雲を取り除き、次に太陽の完全な癒しの能力を放射するところの人です。これは彼等や彼女等が、自分の物質的な存在の多くをひきつけ、そのような磁石に似た力を持つ聖者が存在する理由でも、またあります。ひとつの例として、晩年のインドの聖者シュリ・ラマナ・マハリシは、彼の存在を祝い、彼に良くなることを望み、うだるような熱帯の太陽のもと、25,000もの人々が肩を組み、ひとつの堅い塊となり誕生日を祝いました。」
(『Letting Go: The Pathway to Surrender』94頁より)
あなたは、意識レベル500のわずか1人で、75万人もの200未満の人々のネガティブなエネルギーを打ち消すというスピリチュアルの真実を忘れずに
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