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2026年09月18日03:54

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意識の仕組み(248)手放す(129)恐怖その16

あなたは、座禅、あるいは瞑想のご経験をお持ちでしょうか?

鈴木老子が全米に広めた『禅宗』は、「Jnana Yoga(ギャーナ・ヨーガ:知識の道/較正値975)」の実践方法として、達磨大師によって名づけられた教えに由来しています。

あなたもご存じの通り、その修行スタイルは、座禅をひたすら組む(Raja Yoga:ラージャ・ヨーガ:集中の道/較正値935)ことによって、真正のスピリチュアルの経験を直覚し、最終的に悟りを開くことでギャーナ(叡智/知識)に到達するという教えです。

以下は『禅と日本人』(北川桃雄訳、講談社、2005年)からのご紹介です。

「いまさら言うまでもないが、日本人の道徳的または修養的ないし精神的生活に関し、公明にかつ理解をもって、書いている内外権威者の多くは、禅宗が日本人の性格を築き上げているきわめて重要な役割を勤めたという点で、意見を等しくしている。(中略)この精神はなんであるか。この仏教の真髄を成すものはなんであるか。これは般若(智慧)と大悲である。般若は『超越的智慧』、大悲は『愛:love』または『憐情:compassion』と訳すことができよう。般若によって、人は事物の現象的表現を超えてその実在を見得することが出来る」

「いかなることでもみな、真に『伝え難き』もの、すなわち論議を主体とする悟性の限界を超えたものである。それゆえ、禅のモットーは、『言葉に頼るな』(不立文字)というのである。この点において禅は体験的であり、科学的の名によって行われる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、個人的体験に対してはあまり関心を持たぬ。体験的なるものはまったく個人に属し、その人の経験を背景としなくては意義を持たぬ。科学は系統化を意味し、禅はまさにその反対である。言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない、実体こそ、禅において最も高く評価されるものである。」

鈴木老師は、線形の『理性』を超えたところに、はじめて『禅の本質』のある様を述べていますね。すなわち非線形の『愛』と『憐情』を知ることは、禅の目的であるといいます。

これは、マテリアル(物質世界)ではなくスピリチュアル(精神世界)の探求を意味し、言葉を必要とする科学や哲学とは異なり、修行者本人の主観的なスピリチュアルの真実の体験に至ることこそ、禅の目的であることを示しています。

ホーキンズ博士の推奨するスピリチュアル・ワークの『ア・コース・イン・ミラクルス』の較正値は600です。この意味するところは、エゴを超越しアートマンを知るところ至らねば、真の幸福はないことを示しています。同様に老師によって全米に広まった『禅宗』の教えは、天国の門を開くワークでしたね。すなわちアメリカにおける禅宗のワークの指数が、600台であることで、まさにそれを証明しています。

明日も『禅と日本文化』よりご紹介します。

「すべての治療上の策は、完全に邪魔され、彼女の恐れは確かに麻痺の状態でした。彼女は、私に、彼女の家族と話すことを受け入れませんでした。彼女は、メンタル障害患者とみられること、彼女は、気がふれていると思われることを恐れていました。私は、完全にお手上げでした。私の頭脳は、どうすれば彼女を助けられるのか数週間苦しめられました。最終的に私は、手放しました。私は、正に完全に諦める中、譲り渡しの救済を経験しました。『私は、彼女を救うために出来ることは、全く何もありません。唯一出来るのは、ただ彼女を愛することに任せました。』」
(『Letting Go: The Pathway to Surrender』92頁より)

譲り渡し・・・、手放し・・・、明け渡し・・・、そして委ねましょう顔


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