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2026年08月23日16:40

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武神闘宴 第二章 冠するものたち 一 二

第二章 冠するものたち

一

近藤涼之介の事件から時を遡る。
岩本虎眼という大黒柱の怪死――その喪失。
それを経てもなお、一癖も二癖もある牛股権左衛門、伊良子清玄、藤木源之助――この三名が袂を分かつことなく手を携え続けられたのは、偏に互いの「武」へ敬意を抱いていたからに他ならない。
三名は折を見て、門下生の知らぬところで手合わせを重ねていた。

――牛股権左衛門 対 藤木源之助

まずそこには、圧倒的な体躯の差があった。
牛股が中段に構える。その巨躯に合わせて誂えられた長寸の竹刀。
広大な間合い。そして牛股より放たれる圧。
牛股の切っ先が、己の眉間三寸に突きつけられている錯覚に囚われ、呼吸すらままならなくなる。並の剣士であれば、牛股の放つ無形の圧に晒されただけで、五体が竦むのが道理。
これが牛股の中段の構えである。
対する藤木は、切っ先をやや上段へ向けた、不動の中段。
伊良子は微笑みを崩さず両者を見守る。
始めの合図などない。
両者、微動だにしなかった。
藤木の間合いからでは、牛股は余りにも遠い。
そして遠いだけではない。剛腕から放たれる一撃は、稽古を考慮した竹刀であっても、皮膚が裂け、肉が潰れ、骨を砕く。それほどの質量を備えていた。
もしこれが太刀同士での立ち合いなら、そもそも牛股に隙は存在しない。
だが藤木は、牛股の圧を正面から受け止めた上で、無表情を保ち、構えていた。
一方牛股にも、容易に踏み込めない理由があった。
藤木の構えにもまた、隙がないのだ。
凡百の対手であれば、気圧されて萎縮したところを小突くだけで事足りる。
軍場での真剣勝負であれば、力任せに圧殺してしまえば良い。
しかし、道場剣術の「武」として相対した時、藤木の正対はあまりにも堅牢であった。
互いが気の弛み、呼吸の乱れを微細に探り合う。
額の汗が頬を伝い、顎から落ち、道着の染みを広げてゆく。
まばたきの瞬間か、それとも呼気と吸気の合間か。
牛股が静かに、しかし鋭く竹刀を繰り出した。
長寸の竹刀から放たれる、重い一撃。
藤木はそれを、自身の竹刀の中結(なかゆい)で受け止める。
竹刀は激しく擦れ合いながら滑り、鍔元に届く寸前で止まる。
伊良子なら、牛股の一撃を数瞬も止めることはできまい。
これを受け止める藤木の膂力こそ、異常なのである。
だがこの均衡が長く続くはずもない。
藤木の頭上から、体重を乗せて竹刀を押し下げる牛股。
そう。牛股にとって全力をもって押し込める相手――巻き藁を除けば、人では藤木しか存在しない。
ぎしり、ぎぎぎぎぎ ――竹刀が悲鳴を上げる。
竹の強靱な繊維が歪む。
その緊迫が極限に達したとき、藤木が鋭く、

「――ぬんッ!」

と、短く気合を発した。
次の刹那、摩訶不思議なことが起こる。
力で圧倒していたはずの牛股の竹刀が破裂し、竹片が四方へ弾け飛んだ。

フォト


そのまま勢い余った藤木の剣先は、牛股の額を叩いた。
これは互いの技量を高めるための手合わせ。寸止めを鉄則とする規則に照らせば、藤木の「反則負け」である。しかし牛股はこの一戦を自身の敗北と数えた。
七敗一勝
これが八戦目。藤木源之助が初めて牛股権左衛門より奪った一本である。

二

――牛股権左衛門 対 伊良子清玄

立ち合いが始まるや、伊良子はその魔眼で牛股を凝視したまま、無音で後退した。
床板を摺る音もなければ、衣擦れの音すらない。ただ、間合いだけが開いてゆく。
牛股は追いかけない。
魔眼の奥に策が潜むのであろう。伊良子の不敵な思惑は読めぬ。だが牛股は、敢えてその誘いに乗ることとした。
体躯に勝り、使う竹刀も長寸である牛股にとって、遠間になることは、そのまま自身の優位を意味する。
伊良子は道場の最奥まで退くと、深く腰を沈め、抜刀術さながらに竹刀を構えた。
牛股との距離、およそ十間(約十八メートル)。
剣術の手合わせとしては明らかに異様な位置取りであった。だが、これが軍場で互いに遭遇した場と考えれば、不自然な距離ではない。
鞘なき竹刀での手合わせ。されど伊良子は、右手で鍔元を握り、左手を竹刀の中ほどに添え、深く腰を落とした前傾姿勢をとる。
伊良子の魔眼が ぬらり と光る。
そして「応じるか」と告げるかのように一つ頷くと――爆発的に駆けた。
その動きに、見取り稽古中の藤木の目が見開かれる。
凡そ感情を表に出さぬ藤木が、明らかに驚愕した。それは、伊良子の走法が剣士の常識を逸脱していたからである。通常、道場の床板における剣士は、膝を柔軟に使い、摺り足で前後左右に動き、間合いを測る。しかし伊良子は、抜刀の構えを崩さぬまま、膝を伸ばし切って疾走する。
なんば走りとも異なる足捌き。体幹を微塵も揺らさず、伊良子は真正面から牛股へ突進する。
その俊足は韋駄天の如し。
だが、常軌を逸した速度とはいえ、遠方より正面一直線の接近。牛股の剣速をもってすれば、対処できぬものではない。
残り二間(約三・六メートル)もない。牛股の間合いの寸前。だが、伊良子の間合いには、未だ遠い。
伊良子の左手が竹刀の柄頭へと移る。牛股の右小手を狙う挙動。
しかし、間合いと質量においては、牛股の面打ちが先に届く距離である。
その衝突の直前、伊良子は前傾姿勢のまま――牛股の右手のさらに外側へと、左脚を大きく踏み出した。
――右小手狙いは偽装で、狙いは更に深い右胴であったか。
牛股が剣の軌道を変えたその刹那。
――ふっ まるで陽炎が霧散するかの如く、伊良子の姿が視界から掻き消えた。
牛股が驚愕を覚えるよりも先に、伊良子は左側面に回り込んでいた。
竹刀の切っ先は、既に牛股の喉元へ突き付けられていた。

フォト


「―― 一本あり」
藤木源之助は高らかに宣言した。
四敗二勝。これが、伊良子が牛股に対して積み上げた戦績であった。

さて、牛股の肉眼から突如として消え失せた伊良子であったが、藤木の眼は、その策謀を克明に捉えていた。
道場剣術にありがちな、膝下の脱力を用いた足裁きでは無い。
大腿による押し出しを活かした、剣士にあり得ぬ走法で、伊良子は遠方より牛股に肉薄する。
牛股の放つ面を避けるように、左脚を大きく牛股の右外へ踏み込む。
次の瞬間、速度を一切落とさぬまま右足だけ歩幅を縮める。
さらに牛股の死角たる左側へ、左脚を踏み込んでいた。
歩幅の緩急と視覚情報が生み出す認識の狂わせ。これが常軌を逸した俊足で行われる。
動体視力と人間の予測、魔眼による心理的誘導の裏。
この緻密な身体操作には、伊良子の鍛錬が詰まっていた。
そして袴の内に隠された足捌きを、初見で見破った藤木もまた、天晴れと言う他ない。
魔眼と天賦の俊足揃って初めて成立する幻惑の走法。
牛股は畏怖を込め、伊良子が披露した魔技に『疾風』と名付けた。

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