mixiユーザー(id:7846239)

2019年04月13日22:31

240 view

東京・春・音楽祭2019『さまよえるオランダ人』

ワーグナー: 歌劇「さまよえるオランダ人」(全3幕)

オランダ人: ブリン・ターフェル
ダーラント: イェンス=エリック・オースボー
ゼンタ: リカルダ・メルベート
エリック: ペーター・ザイフェルト
マリー: アウラ・ツワロフスカ
舵手: コスミン・イフリム

合唱: 東京オペラシンガーズ
管弦楽: NHK交響楽団
ゲストコンサートマスター: ライナー・キュッヒル
指揮: ダーヴィト・アフカム

映像:中野 一幸

2019年4月7日(日),15:00開演,東京文化会館(演奏会形式,字幕・映像付)


先週の日曜日,東京・春・音楽祭ワーグナー・シリーズvol.10「さまよえるオランダ人」を観た。総体的には満足できる公演だった。しかし,ワーグナーの作品をこの催しで上演することの難しさを身に染みて感じた。もし,ブリン・ターフェル,ペーター・ザイフェルト,それにライナー・キュッヒルが公演に参加していなかったならば,惨憺たる結果に終わったのではないだろうか。

まず,NHK交響楽団はお粗末なオーケストラだとは思わないが,ことワーグナーのオペラに関する限り,怒りを通り越して悲しみを覚えるくらい酷い。良い意味でも悪い意味でも,N響はシンフォニー・オーケストラだということを痛感させられる。書道を引き合いに出せば,行書体ときには草書体で表現しなけれなならないオペラをお行儀の良い楷書体で貫き通そうとするところに根本的な無理がある。楷書体は彼らが長年の演奏活動を通じて培ったスタイルなので,N響のアイデンティティーであることは理解できる。しかし,ワーグナーの作品を自分たちのスタイルに合わせて演奏することしか念頭になく,ワーグナーの音楽に精一杯歩み寄ろうとする姿勢が微塵も感じられないのは,いったいどうしたことだろう。そもそも,ワーグナーに限らずオペラそのものをどのように演奏すれば良いのか分かっていない,分かろうとさえしない傲慢さを感じる。音楽が感情を表現する芸術分野だとすれば,オペラは音楽のなかでも人間の激情に焦点を絞ったジャンルであり,当然聴衆を興奮の坩堝に巻き込むような演奏を目指すはずだ。N響はそのことを理解していないばかりか,理解そのもの頑なに拒んでいるような演奏に終始していた。この音楽祭でワーグナーを演奏する際,別の在京オケを起用した方がよりマシな演奏が期待できるのではないだろうか。現実的には,スケジュールの問題などで,一朝一夕に実現するのは困難だろうが。

そして,もしコンサートマスターとしてライナー・キュッヒルがN響に参加していなかったとしたら,比較にならないほど無残な結果に終わった可能性も否定できない。シンフォニー・オーケストラの作法でワグナーを弾こうとするN響を必死の形相でオペラ演奏の方向へ持って行こうとしていたのがウィーン・フィルの元コンサートマスターだ。口で言っても分かってもらえないのでヴァイオリン一丁で理解してもらう以外に方法はないと思い定めているかのようなオーラが彼の全身から放射されていた。聴衆の感情を煽るような演奏をというアジテーションをN響の団員へ向けて声を枯らして孤軍奮闘する姿がそこにあった。しかし,キュッヒルのボーイングと他の弦楽奏者とのボーイングとの間には,素人が見てもわかる違いがあり,同様のことは他のセクションの団員との間でも妥当する。キュッヒルが全身全霊でオーケストラを強引に引っ張ったおかげで,多少ワーグナーらしい演奏になったものの,所詮多勢に無勢,シンフォニー・オーケストラの流儀は根本的に改まる訳ではない。気位の高い侍が漫才を演じようとしているような違和感は拭えない。

指揮者のダーヴィト・アフカムがいかなる人物なのか承知していないが,オーケストラが実際にどう演奏しているかとは関係なく,ただ自分の好きなように棒を振っているようにしか見えない。もちろん多少の交通整理はしていたが。ときにはオーケストラのやっていることを追認する棒のようにも見えなくはない。N響がワーグナーらしからぬワーグナーを演奏した責任の一端は指揮者にもある。

ライナー・キュッヒルの壮絶な戦いの強力な援軍となったのが,ブリン・ターフェルとペーター・ザイフェルトを中心とする海外組のソリストたち。仮に,ブリン・ターフェルがオランダ人を歌っていなかったとすれば,キュヒルを欠いた場合より格段に惨憺たる結果に終わったことは確実だ。その意味で,今年の「さまよえるオランダ人」の公演を引き締めたのはブリン・ターフェルである。安定した存在感抜群の声で,常にドラマ全般を支配しその核を作り上げてゆく歌唱はお見事という以外にない。深く静かに聴く者の心を揺り動かす。「さまよえるオランダ人」というオペラの錘であり,このオペラにワーグナー作品らしさを与える決定的な役割を演じる。この上演を観てワーグナーを聴いた満足感を味わったとすればその9割以上はブリン・ターフェルのお陰でといっても差し支えないだろう。エリック役のペーター・ザイフェルトは役柄のせいもあってかブリン・ターフェルほど際立つ存在ではなかったが,それでも違和感を微塵も感じさせない歌唱は重要な貢献を行ったことの証であろう。アイン・アンガーの代役でダーラントを歌ったイェンス=エリック・オースボーも決して悪くはなかったものの,やや異質な歌唱が気になった。ゼンタ役のリカルダ・メルベートもブリン・ターフェルと比べてしまうと,聴き劣りはするのは致し方ない。

例の如く,舞台装置の代わりを映像がつとめるという趣向である。映像が上演を邪魔をしていないと同時に,ほとんど貢献もしていないというのが実情だろう。オペラの冒頭,序曲が鳴っている最中,ドローンで撮影したような映像が流れたのは斬新だったが。

ブリン・ターフェルによる最高のオランダ人を聴くことができたのは幸運だった。あのような機会に恵まれるのは僥倖以外の何物でもないだろう。一方,オペラ,とりわけワーグナー作品を演奏するオーケストラが,聴衆を煽り焚き付けるようなオペラに求められる演奏を行うハードルが高いという事実も露わになった。オペラを演奏する経験が圧倒的に少なく,本来の意味でオペラを振ることのできる指揮者がいないに等しいのだがら当然である。
2 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年04月>
日 月 火 水 木 金 土
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930