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2019年02月17日16:48

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クルレンツィス&ムジカエテルナ

【プログラム】

1 チャイコフスキー: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
2 チャイコフスキー: 交響曲第6番 ロ短調 Op.74「悲愴」

(アンコール)
 ミヨー:”ヴァイオリン,クラリネット,ピアノのための組曲Op.157b”より「第2曲」
     (コパンチスカヤ&ムジカエテルナ首席クラリネット奏者)
 リゲティ:「バラードとダンス」(2つのヴァイオリンのための編曲)
     (コパンチスカヤ&ムジカエテルナのコンサートマスター)
 ホルヘ・サンチェス=チョン:「クリン(コパンチスカヤに捧げる)」
     (コパンチスカヤ)

ヴァイオリン独奏:パトリツィア・コパンチスカヤ
管弦楽:ムジカエテルナ
指揮:テオドール・クルレンツィス

2019年2月10日(日)15:00開演,Bunkamuraオーチャードホール


いま評判のクルレンツィス&ムジカエテルナの公演を聴いてきた。何年か前,某マイミク氏からこのコンビによるモーツァルトの「フィガロの結婚」のCDを紹介いただき,それ以来彼らのステージを聴く日を心待ちにしていた。それがようやく念願が実現した。

昨年6月に聴いたロト&レ・シエクルと同じく,クルレンツィス&ムジカエテルナも古楽界のニューウェーブの流れを汲むと言ってよさそうだ。両者とも初演当時の楽器を使用し,当時の奏法に忠実な演奏を心がけ,埋もれてしまった作品の別の姿をその当時の響きで再現するというコンセプトを共有している。他方違いは,前者が演奏の流れや勢いなど即興性を大切にする一方,後者は練習で細部まで徹底的に彫琢しそれを本番で寸分違わず披露するといった姿勢の違い。

繰り返しになるが,ロト&レ・シエクルがやや大らかなアンサンブルで自然な流れを重視するとしたら,クルレンツィス&ムジカエテルナはリハーサルで作品像をとことん追究し,それをそのままステージで再現できるまで練習を積み重ねることに力点を置いている。なので,彼らの演奏はオーケストラによる室内楽とでも形容したくなるほど一糸乱れぬ精緻なアンサンブルが特徴だ。室内楽というより弦楽四重奏団による緊密なアンサンブルを目指していると表現しても差し支えない。でも彼らの演奏に息苦しさや堅苦しさを一切覚えず,自発性に溢れる演奏という印象を持つのは,指揮者とメンバーの類稀な演奏家としての力量の賜物だろう。ヴァイオリン協奏曲の演奏のあとで披露されたアンコール曲でコパンチスカヤの相手を務めたクラリネットの首席やコンサートマスターの力量は,ヴァイオリン独奏のコパンチスカヤに一歩たりとも引けを取らない目を瞠るものだった。信じられないほど上手い演奏家たちが,イマジネーション豊かな指揮者の下で徹底的に練習を積んだとすれば,鬼に金棒なのは容易に想像ができる。

クルレンツィス&ムジカエテルナのサウンドは典型的な古楽オーケストラとはやや異なるものの,チャイコフスキーにしてはかなり渋い響きだ。カラヤン&BPOによる艶やかで重厚な音と比べると,古雅で乾いた軽快な響きがクルレンツィス&ムジカエテルナの特徴である。その趣のある軽妙なサウンドで新しいチャイコフスキー像を造形する。従来の典型的なチャイコフスキーが金属で鋳造した彫刻だとしたら,クルレンツィス&ムジカエテルナのチャイコフスキー像は手と鑿で削り出した石像のような趣である。しかも,大理石の像のように細部まで磨き上げられた彫刻とは異なり,素材の質感が何かを訴えているような道端に置かれた道祖神のような像でもある。それでいて,一切の誤魔化しや曖昧さは排除されていて,明晰そのもの。会場で受け取ったプログラムには,クルレンツィスは「人とは違うことを楽譜から読み取れる自分に気付き」指揮者を目指したとあるが,多くの人がチャイコフスキーの音楽と聞いてイメージするものとはかなり隔ったている。しかし,ステージで鳴っているのは紛れもなくチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲であり「悲愴」である。ただし,どこかロシア正教の木造の教会の佇まいを思い起こさせるチャイコフスキーだ。

とはいえ,いまの時代を強く意識させる演奏でもある。おそらくagilitaを基調とする軽快で俊敏な演奏が現代にふさわしい演奏という印象を与えるのだろう。常に聴く側を軽く煽り挑発するたぐいの演奏が続く。その煽り挑発する加減が心地良いので,ついつい引き込まれ聴き入ってしまう効果が生まれる。クルレンツィスは聴衆を音楽に引き込んでしまうツボを実に良く心得ている指揮者であり,この点に関しては天才だ。この点に関しては,この日取り上げられたチャイコフスキーの2曲は,最初に聴いたCD「フィガロの結婚」よりもさらに巧妙になっているといえなくもない。これは従来のチャイコフスキーではないと思いつつも,ついつい聴き入ってしまうのは指揮者のこうした天才的な巧妙さゆえなのだろう。

コパンチスカヤのヴァイオリンは,クルレンツィス&ムジカエテルナの音楽をもう少し煮詰めて濃度を上げたような演奏である。方向性は一致していて,さらに一歩先を行くようなところがあるという意味だ。つまり,彼女のヴァイオリンはムジカエテルナの演奏をさらにデフォルメしたようなところがある。古楽が一般にも浸透し始めた頃に,ヴィヴァルディやバッハの演奏でそれまでにはなかったような強調が特徴の演奏が登場した。それをチャイコフスキーにも適用したような演奏がコパンチスカヤの独奏である。これをやり過ぎと捉えるか,面白いと感じるかは感性の問題だろう。行き過ぎの面はあるにしても面白い試みだと個人的には感じた。コパンチスカヤはクルレンツィス&ムジカエテルナにとって願ってもない共演者であることは十分理解できる。

このコンサートを聴いていて,「失われた30年」という常套句を思い起こした。この間,国内の音楽界でもさまざまな変化が起きたことは承知しているつもりだが,音楽の分野でもこの国は世界から取り残されつつあるように思えたからである。古楽器による演奏ひとつ取っても,古楽演奏が普及したことは間違いない事実だとしても,ロト&レ・シエクルやクルレンツィス&ムジカエテルナのような古楽のイノヴェーションに関しては大きく立ち遅れてしまったのではなかろうか。古楽演奏を駆使して革新的な音楽表現を追い求める傾向は無きに等しいように思う。
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