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2019年02月14日11:10

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「南無」とは、おまかせするということ


ひろさちやさんの「わたしの南無妙法蓮華経」(佼成出版)より。

インド人は、挨拶のとき合掌して、「ナマス・テー」と言います。「おはよう」も「こんにちは」も「さよなら」もすべて「ナマス・テー」です。
“ナマス”というのは、ヒンディー語で「尊敬します」の意。
“テー”は、「あなた」ですから、「あなたを尊敬します」という意味です。

“南無”ということばは、この“ナマス”の音訳語です。
このヒンディー語の“ナマス”は、古代インドのサンスクリット語では“ナマッハ”もしくは“ナモー”と言います。仏教経典が中国語に翻訳されたときに、“ナマッハ” “ナマス”は“南無”と訳されました。

“南無”を意訳すると、「帰依」とか「帰命」となります。「帰命」とは、「おのれの身命を投げうってほとけに帰依すること、すべてをほとけに委ねること」を言います。もっと、わかりやすく言えば、

――おまかせする―

ということです。“南無妙法蓮華経”とは、『法華経』に『南無』するということです。『法華経』の教え、真理に「おまかせします」という意味です。おなじように、“南無阿弥陀仏”とは、「阿弥陀仏」に「おまかせします」ということです。

わたしたちは、日常生活の中でさまざまな「はからい」を持って生きています。
「どうしたら得をするだろうか」
「どのように育てたら、子どもに損をしない人生を送らせてやれるだろうか」
「一流大学に行かせたい」
「なんとかこの子を幸せにしてやりたい」
などと、あれこれはからっています。

しかし、よくよく考えてみれば、あれこれはからってみても、うまくいくかどうか、これは、わからないことです。そういうはからいは、とても頼りないものなんですね。
子どもが「塾なんか行きたくない」と言っているのに、「お前の将来のためだ」と言って鞭を打って塾通いをさせる。遊びたい盛りの子どもなのに、「勉強しろ、勉強しろ」と親は必死になる。しかし、そういう勉強をさせてうまくいくかどうか、これは、わからないことです。ひょっとして、子どもが自殺するかもしれません。

また、ずっと健康でありたいと思っていても、人間というものは、必ず病気になるものです。
わたしたちは、細菌やウイルスによって冒されるのが病気だと思っています。コッホが結核菌を発見してから、病原菌さえ除ければ病気は治るのだと考える医学が、近代になって芽生えてきました。

そして、「闘病」ということばができましたが、果たして、病気と闘っていいのでしょうか? じつは闘って勝てるような病気は数少ないのです。そういう「闘病の思想」というものは、うまくいかないのです。

たとえば、病気のなかには、コレステロール値が高いとか、糖尿病や高血圧などの生活習慣病もありますが、これは闘って治るような病気ではありません。また、前立腺肥大症のように、老化現象によって起るものもあります。それを治そうと思って闘うと、かえっておかしくなるのです。

ガンもそうです。ガンと闘っていいのか悪いのか、これは医者でも意見の分かれるところです。それから、神経症などのこころの病です。その病と闘えば、自分自身と闘うことになってしまいます。

病気と闘って治そうとするのは、人間の愚かさです。これは、西洋医学に毒された考え方です。このように、わたしたちは、なんとか健康でありたいと、自分なりにはからっています。しかし、あれこれとはからってみても、うまくいくかどうか、わたしたちには、所詮、わからないことです。

「南無」とは、そういうはからいを捨てて、すべてをおまかせすることです。





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