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2018年08月05日20:52

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ミンコフスキ&OEKの「ペレアスとメリザンド」

ドビュッシー: 歌劇「ペレアスとメリザンド」
(2018年ボルドー国立歌劇場のプロダクションによるセミ・ステージ形式の上演)

ペレアス: スタニスラス・ドゥ・バルべラック(テノール)
メリザンド: キアラ・スケラート(ソプラノ)
ゴロー: アレクサンドル・ドゥハメル(バリトン)
アルケル: ジェローム・ヴァルニエ(バス)
ジュヌヴィエーヴ: シルヴィ・ブルネ=グルッポーソ(メゾ・ソプラノ)
イニョルド: マリエ・ケレ(アキテーヌ・ユース声楽アカデミー・メンバー)
医師・牧童: ジャン=ヴァンサン・ブロ(バス)

合唱ほか: ドビュッシー特別合唱団
管弦楽: オーケストラ・アンサンブル金沢
指揮: マルク・ミンコフスキ

演出: フィリップ・べジア,フローレン・シオー
衣装: クレメンス・ペルノー
照明: ニコラ・デスコトー
映像: トマス・イスラエル

2018年8月1日(水),19:00開演,東京オペラシティーコンサートホール


「ペレアスとメリザンド」の晦渋さが雲散霧消する名演。メーテルリンクの原作が活き活きと蘇り,ドビュッシーの音楽も艶めかしく囁きかける。それを支えるのは鍛え上げられた独唱陣と柔軟性に富んだ管弦楽。こうした不可能を可能にする魔法を自在に操るマルク・ミンコフスキの存在は圧倒的だ。

このオペラを最初に聴いたのはアンゲルブレシュト&フィルハーモニアのモノラル盤。このディスクの貧弱な響きを想像力で補えず,次に入手したのはアバド&VPO盤。そのCDでもこのオペラの真価が分からず,カラヤン&BPO盤にも手を出してはみたものの,フラストレーションが解消されることはなかった。最も納得がいったのは,ブーレーズ&ウェールズ・ナショナル・オペラのDVD。フランス人でなければ,この作品を満足に振ることはかなわないのだろうかなどと考えた。そしてミンコフスキ&OEKによるこの公演を知って,積年の不満を取り除いてくれるような気がした。とにかく「ペレアスとメリザンド」のステージを観てみなくてはと長年考えていた。

この公演を観るまで,ドビュッシーがワーグナーの音楽に傾倒していた時期があったこともあり,「ペレアスとメリザンド」は「トリスタンとイゾルデ」のフランス版かと単純に考えていた。たしかに,そのような一面があることは間違いないが,ことはそれほどシンプルでないことがよくわかる上演だ。「トリスタンとイゾルデ」が哲学的・深層心理学的だとすれば,「ペレアスとメリザンド」は物語的・運命論的といえる。メリザンドが深い森の中でゴローと巡り会うのも偶然の仕業なら,彼女がペレアスと出逢い愛に目覚めるのもふとした切っ掛けのため。そうした表層的な出来事の背後には,ゴローとの偶然の巡り合いやペレアスとの決定的なめぐり逢いも,運命の糸に導かれた必然であるとの見方があるだろう。そもそも,人間はそのような偶然や必然に翻弄される存在であるという人間観をうかがわせる。架空の王国アルモンドはヨーロッパの貴族層の没落する宿命を体現していて,それに弱々しく抵抗する以外に術のない人間の無力さを描いているのではなかろうか。人間の悲しい宿命を象徴的に表現した物語が浮き彫りになるプロダクションである。

この作品を録音で聴くと,ドビュッシーが作り出した響きの多様性やニュアンスを聴き取るのが難しい。微妙な色彩を帯びたさまざまなサウンドが同時に響く箇所でも,それらが大きな音の塊の中に吸収されてしまい,団子状のサウンドが鳴り響いているように聴こえる。一方,このオペラのステージに接すると多種多様なフレーズが同時に響いているときでも,それらのサウンド相互には一定の秩序があり,それぞれのモチーフが意味を帯びて鳴るとともに,その秩序全体が何かを表現するといった重層性をクリアーに聴き取ることができる。さらに,ディテールを把握できればできる程,さまざまなレベルの響きが,個々に,あるいは一体となってドビュッシーならではの象徴的な意味を持っていることが一層明らかになる。ドビュッシーの繊細なニュアンスや象徴性はライブでなければ感じ取ることが難しいのだろう。この公演を聴くまで,ドビュッシーが完成させた唯一のオペラが,彼の管弦楽曲,室内楽作品,ピアノ曲などとどのように関連しているのか掴みかねていたが,この作曲家が他のジャンルで探求し続けたヴォキャブラリーが「ペレアスとメリザンド」で縦横無尽に駆使されていることがわかる。

ミンコフスキの指揮は,ドビュッシーの作品一般が持つ微妙なニュアンスを損なわない範囲で,明晰極まりない音楽を紡ぎ出していた。あるいは,ディテールまで明晰に響かせる技量があるからこそ微妙なニュアンスを十全に表現できたという方が正確だろう。彼の抜群のバランス感覚があればこそ,こうしたことが可能になったことは言うまでもない。そして,ドビュッシーがこのオペラを書き上げた時のオリジナル・ヴァージョンを使い,オーケストラの間奏が短くなるなど簡潔になったために演奏全体に活き活きした流動性が生まれたとも考えられる。何といっても,一番印象的だったのはオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)から精妙で色彩的なドビュッシー・サウンド引き出していたことだ。これまでも,OEKが地元のホールに来演した折に,この室内オーケストラの演奏を聴いたことはあるが,強烈な印象を残すことはなかった。ミンコフスキがこのオケを振ると,格段に良く鳴るようになり,柔軟性やしなやかさが増して,まるでフランスのオーケストラのような色彩感のある響きを生み出す。他の作曲家の作品を演奏するときのように,雰囲気よりも明晰さを強調したミンコフスキのアプローチが成功を収めたようだ。

オーケストラのサウンド以上に驚いたのは,ソリストたちの歌唱。こちらも,幽玄さよりも明晰さを優先。ドビュッシーの音楽が持つ雰囲気を表現するというより,歌詞のメッセージを掘り起こし,それを歌にして客席に届けることに主眼を置いた歌いぶりだった。キャストは一人を除き今年1月のボルドーでの上演と同じメンバーであるが,何年もかけて熟成させたプロダクションのように練りに練られた歌唱だ。上演回数は,ボルドーで2回,金沢で1回,そして東京での公演である。ボルドーでの公演に先立って十二分に練り上げたことはたしかだろうが,それにしてもこの熟成の度合いは1年足らずで作り上げられたものとは到底信じ難い。ミンコフスキが厳選したソリストを起用し,指揮者の意図をじっくりと伝え,それを咀嚼し表現しうる秀でた技量の歌手が揃っている。これまで観たオペラの公演では,ほぼ例外なくソリストの出来にムラがあるのが通例だが,今回のように不満を感じる歌手が皆無だというのは驚くべき例外だ。あらためて,ヨーロッパのオペラ文化の底力を見せつけられた思いである。もちろん,この公演に関しては,ミンコフスキも歌手たちも本気で真剣勝負を挑んでいたことは大きい。

メリザンドを歌ったキアラ・スケラートの澄んだ強靭な声は,一見この役とは相容れないようでもあるが,その声が伝えるテクストのメッセージは頭を通り過ぎて直接心に届く。ペレアス役のスタニスラス・ドゥ・バルべラックは他の役柄との間合いの測り方がうまく,優柔不断な面を持つペレアスを絶妙に演じていた。ボルドー公演には参加していないアレクサンドル・ドゥハメルは,粗野の誹りを免れ難いゴローを直情径行型の男と捉え,このオペラでの敵役に徹することで重要な貢献をした。やや存在感の薄いアルケル王を演じたジェローム・ヴァルニエは,深いバスの声で上演全体を引き締めるとともに底辺から支え,そのことでこの作品の悲劇的要素を相対化する役割を果たしていた。最終場面で「今度はこの子が生きる番だ」という呟きは,救いよう無い暗さに満ちたこのオペラに,印象的な一筋の光明を与える。ジュヌヴィエーヴ役のシルヴィ・ブルネ=グルッポーソは,メゾでありながら明るく快活な印象を与える声で,この荘重な悲劇に彩りを添える。イニョルドを歌ったマリエ・ケレはティーンエイジャーの少年で,ボルドーでの公演がソリストとしてのデビューであるにもかかわらず,完成度の高い芳醇な味わいのソロを聴かせる。このあたりにも,フランスの層の厚みや底力を感じさせる。医師と牧童を演じたジャン=ヴァンサン・ブロは,とりわけ第5幕で医師として登場した場面での渋く深々とした声による歌唱で,この悲劇の幕を閉じる下地を用意した。

名演はいろんな要素から成り立っていると思うが,作曲家がその作品に込めたイメージを掬い取っているというのもそのうちの一つだろう。この日の演奏がドビュッシーのイメージをどれだけ表すことに成功しているか定かではないものの,「ペレアスとメリザンド」という歌劇に直接触れる経験を初めてできたように感じた。それがステージに接したからなのか,抜きん出たプロダクションだったからなのか,詳らかではなくとも,この作品がオペラ史の金字塔と言われる理由の一端に触れることができたと実感した。
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